保定陸軍軍官学校とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 保定陸軍軍官学校の意味・解説 

保定陸軍軍官学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/14 03:40 UTC 版)

保定陸軍軍官学校(ほていりくぐんぐんかんがっこう)は、中国近代史上最初の正規陸軍軍学校である。河北省保定市(当時の省都)郊外にあり、保定軍官学校とも略称する。

概要

前身は清朝北洋軍閥の陸軍速成学堂、陸軍軍官学堂である。袁世凱中華民国総統在任中開設された。1912年から1923年までの間に9期を経、6千人余りが卒業した。その後、黄埔軍官学校の教官となった者も多い。また1,600人以上が将軍となっている。

保定軍官学校は下級将校の養成を目的とし、修業期間は2年である。歩兵騎兵砲兵工兵輜重兵5科に分れ、日本の陸軍士官学校をモデルとしている。教官も日本陸軍士官学校卒業者が多かった。最初の正式校長は趙理泰。

歴史

天津武備学堂を失い、列強の脅威にさらされていた清にとって近代的な将校の育成は急務であった。

1902年6月、保定の地に北洋行営将弁学堂が開校された。一期8か月の流れで三期545名の学生を輩出した[1]。更に、短期班練兵営、参謀学堂、測絵堂等が創設された。

1903年4月、袁世凱は各国の軍事教育を研究し、陸軍小学堂中国語版、中学堂、大学堂の三段階による教育方針を提唱した。翌1904年9月、これに兵官学堂を加えた四段階による正課学堂が『陸軍学堂辦法』として定められ、学堂が各地に開設されることとなった。だが、期間が余りにも長すぎる事から内部に不満の声も少なくなく、これとは別に速成学堂の開設が認められた[1]

1903年10月、保定東郊に北洋軍政司練兵処の管轄として北洋陸軍速成武備学堂が開校された。この他、軍医学堂、馬医学堂、軍械学堂、経理学堂なども開校されたが、のちに武備学堂の師範班、軍械班、経理班等として吸収されている[1]

1906年8月、北洋陸軍部の管轄となり、陸軍速成学堂(陸軍協和速成学堂とも)へと改称[1]、定額八百、2年制実習となる。また陸軍軍官学堂及び陸軍予備大学堂が併設された。1912年、陸軍予備大学堂は北京に移転し陸軍大学となる。10月、陸軍予備大学堂と陸軍速成学堂の跡地を利用し、保定陸軍軍官学校が開校した。

1920年、給料未払いから校内で暴動が起こり放火された。1923年8月、廃校となった。

歴代校長

  • 趙理泰(1912年10月-12月15日)
  • 蔣方震中国語版(1912年12月15日-1913年9月)
  • 曲同豊中国語版(1913年9月-1915年9月)
  • 王汝賢中国語版(1915年9月-1916年6月)
  • 楊祖徳(1916年8月-1919年2月)
  • 賈徳耀(1919年3月-1921年5月)
  • 張鴻緒(1921年6月-1922年9月)
  • 孫樹林(1922年10月-1923年8月)

主な教官

  • 多賀宗之 - 総教習、1903年~
  • 川喜多大治郎 - 1906年4月〜9月、のち清国への機密漏洩容疑で日本憲兵により射殺

著名出身者

以下の一覧は保定陸軍軍官学校及びその前身の出身者を含んでいる。

北洋行営将弁学堂
北洋陸軍速成武備學堂
北洋陸軍部陸軍速成學堂
陸軍軍官學堂
保定陸軍軍官學校

第一期(1912年8月秋入学、1914年11月卒業、1114名)

第二期(1914年初入学、1916年5-6月卒業、956名)

第三期(1914年8月入学、1916年8月卒業、801名)

第四期(1915年秋入学、1917年秋卒業、209名)

第五期(1916年6月入学、1918年9月卒業、630名)

第六期(1917年初入学、1919年春卒業、1333名)

第七期(1917年秋入学、1919年秋卒業、191名)

  • 歩兵科(146):黄維剛、張新三
  • 騎兵科(45):陳長捷中国語版、劉堯宸

第八期(1918年8月入学、1922年7月卒業、638名)

  • 歩兵科(411):周至柔裴昌会中国語版、劉膺古、王以哲中国語版劉珍年中国語版、胡伯翰、劉春栄、王育瑛、劉奉濱、劉廣済、韓錫侯、孔令恂、李士林、王景宋、史澤波、古鼎華、郜子挙、傅仲芳、陳孔達、楊曉軒、金徳洋
  • 騎兵科(65):徐梁、郗恩綏
  • 炮兵科(97):陳誠羅卓英馬法五劉翰東
  • 工程兵科(37):王東原
  • 錙重兵科(28):不明

第九期(1919年8月入學、1923年8月畢業、702名)

  • 歩兵科(423):何基灃、張克俠中国語版李覚中国語版、周福成、邊章五、宋邦栄、夏国璋、施中誠、張壽齢、張文清、牟中珩、劉萬春、賀粹之、黄延禎
  • 騎兵科(76):李宗弼
  • 炮兵科(121):董振堂、郭寄嶠、黎行恕、劉多荃、王晋
  • 工程兵科(40):陳宝倉中国語版、林柏森
  • 錙重兵科(42):不明
  • 肄業:展書堂

卒業年不明:高冠吾任援道武亭(9期砲兵科?)

関連項目

出典

  1. ^ a b c d 李金錚『論保定陸軍軍官学校』” (PDF) (中国語). 中国社会科学院近代史研究所. 2017年8月6日閲覧。

参考文献

  • 《保定陸軍軍官学校同学録》,中国社会科学院近代史研究所提供。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「保定陸軍軍官学校」の関連用語

保定陸軍軍官学校のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



保定陸軍軍官学校のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの保定陸軍軍官学校 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS