広西派での台頭
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郷紳の家庭に生まれる。1910年(宣統3年)、広西陸軍小学に入学し、黄紹竑・白崇禧らと同級・同学となった。辛亥革命が勃発すると、革命派の学生軍に加入している。中華民国成立後は南京で当初軍事教育を受け、後に湖北省に移って陸軍第2予備学校で学んだ。1915年(民国4年)、保定陸軍軍官学校第3期歩兵科に入学し、翌年6月に卒業している。その後、広西省に戻り、広西陸軍(旧広西派、旧桂系)で順調に昇進を重ねた。 1924年(民国13年)6月、李宗仁・白崇禧・黄紹竑ら新広西派が旧広西派の陸栄廷、沈鴻英との三つ巴の戦いの中で南寧を占領する。この時に新広西派は「定桂討賊聯軍総指揮部」を結成し、当時、李の配下にあった夏威は討賊軍第3縦隊司令に任ぜられた。夏威は新広西派による広西統一戦争に貢献し、広西統一と国民革命軍第7軍への再編が成った後の1926年(民国15年)3月、夏は国民革命軍第7軍第6旅旅長に任ぜられた(まもなく第1旅旅長に横滑りする)。
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