広西派への呼びかけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 04:38 UTC 版)
南寧は李宗仁・白崇禧将軍ら広西軍閥の本拠地で、1932年(昭和7年)に日本から広西軍へ山砲など重火器類を売却した際、日本軍の軍事顧問団がその使用教育のために約1年間招かれていたことがあった。そうした経緯もあり日本軍の中では、”反蔣派”の李・白両将軍をうまく誘いかければ、蔣介石(重慶政府主席)に対して反旗を翻すのではないかとの微かな期待が寄せられていたのである。 参謀兼特務機関長として第5師団に臨時配属されていた中井増太郎大佐も、かつての顧問の一人であった。12月7日ごろ、中井大佐の旧使用人(南寧北方に在住)がやって来て、「蔣介石直系軍の約10万人がまもなく前進してくると評判」と告げた。今村中将は、南寧北方の山岳地帯を10万の大軍が通過することは考えられないと判断して、この情報を取り上げなかった。 12月10日、今村中将は『白崇禧、李宗仁将軍に与ふる書』という「提携か、戦闘か」の応答を求めた通電を両将軍宛に発した。この時期中国に対する様々な謀略工作が行われ、広西軍閥への接触もそのひとつであった。しかし事変3年目を迎え、日本の困窮ぶりを熟知している中国が抗戦の態度を崩すことはなく、数多く展開される謀略路線も日本の弱味をかえって暴露するだけの結果となった。 12月4日(12月7日とも)、南寧の奪回を重視する蔣介石軍事委員長は、中央軍部隊を華中から広西省へ転用し、従来軽易に使用しなかった機械化部隊(第5軍)も投入して総反攻を行うことに決定していた。湖南、四川、広東など各地から合計19個師(約15万人)が南寧周辺に集結し、12月17日、総指揮官・白崇禧から反撃命令が発令された。そして、その第一波である第5軍(3個師)が崑崙関の日本軍陣地に攻撃を開始した。 詳細は「崑崙関の戦い」を参照
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