広西争奪戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 02:09 UTC 版)
しかし、まもなく沈鴻英は呉佩孚と連絡を取るようになる。3月、北京政府から督理広東軍務善後事宜として任命された。4月には沈はこれを拝受し、広州の孫文を攻撃する。しかし、孫文・劉震寰・楊希閔の軍に反撃され、結局は広西へ敗走した。この後、広西省では、沈軍、陸栄廷軍、そして李宗仁ら新広西派(新桂系)軍との三つ巴の抗争が開始される。 沈鴻英は、3勢力中最強の陸栄廷に対抗するため、新広西派と事実上の連合を形成した。1924年(民国13年)4月、桂林に進軍してきた陸を沈は包囲・攻撃した。この間の6月に、新広西派は手薄となった南寧を攻略して、陸をさらに追い込んでいる。8月、陸が全州に撤退したため、沈は桂林を占領した。さらに9月、沈は全州を攻略して陸を広西から駆逐し、翌月の下野に追い込むことに成功した。 しかし、翌年に開始された新広西派との戦いでは、沈鴻英は次第に不利に追い込まれていく。ついに同年4月に桂林を失陥し、ほどなくして広西省から駆逐されてしまった。沈は香港へ身一つで逃れ、以後、軍政に復帰しようと目論むことは無かった。 1938年(民国27年)、香港で病没。享年68。
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