黔軍での台頭
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幼年時代は私塾で学習したが、1908年(光緒33年)に貴州陸軍小学第4期生となる。しかし、病のため卒業できず、帰郷して故郷で小学の教師となった。 中華民国成立後、李燊は貴陽に赴いて黔軍に加入した。このときに袁祖銘と親交を結び、以後、李は袁の下で貴州省・四川省を転戦した。後に、黔軍第1混成旅旅長、第5師師長と昇進する。 1925年(民国15年)、黔軍第1師師長王天培が、北京政府中央軍の暫編第9師師長に昇格したため、李燊が後任の黔軍第1師師長となる。翌年7月、黔軍は国民政府側についた。黔軍の彭漢章と王天培はそれぞれ国民革命軍第9軍軍長・第10軍軍長に任ぜられ、10月には袁祖銘が国民革命軍第12軍軍長兼左翼軍前敵総指揮となった。11月、李も国民革命軍暫編第7軍軍長に任ぜられ、まもなく袁配下の第1路総指揮となった。
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黔軍での台頭
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最初は学問を志したが、1907年(光緒33年)3月、貴陽陸軍小学堂に入学する。1909年(宣統元年)の卒業後は、興義県小学堂の体操教員となった。1911年(宣統3年)、劉顕世の靖辺巡防営に加入している。 辛亥革命後の1913年(民国2年)9月、貴州陸軍第1団第2営長に任命され、まもなく第1営営長となった。1915年(民国4年)12月の護国戦争(第三革命)では、王文華率いる護国軍に加入し、北京政府軍と戦った。1916年(民国5年)、陸軍少将銜を授与される。翌年には、暫編貴州陸軍第1師第1旅第1団団長に昇進した。1918年(民国7年)3月、貴州陸軍第2師師長となる。 袁祖銘は、王文華配下の中でも勇猛な指揮官として台頭した。しかし、次第にその実力を恐れる王と対立するようになる。また、王は南方政府支持派であったが、袁は逆に北京政府に接近していた。1920年(民国9年)11月、王は民九事変を発動して貴州督軍劉顕世を下野に追い込み、貴州の統治権を確保しようとした。しかし翌年3月、袁は刺客を放って王を暗殺したのである。
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黔軍での台頭
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父は緑営の都司だったが、後に造林業を営んだ。王天培は、初めは学問を志したが、科挙の廃止に伴い、軍人の道を志す。1907年(光緒33年)に貴州陸軍小学堂に入学し、卒業後に武昌陸軍第3中学で学んだ。なおこの頃、袁祖銘とは換譜兄弟の契りを結んでいる。 1911年(宣統3年)10月、武昌起義が勃発すると、王は学生代表として革命軍に参加し、前線作戦指揮官となる。12月には、凰山要塞司令をつとめた。1912年(民国元年)、保定陸軍軍官学校に入学した。1913年(民国2年)12月、袁世凱が国会を解散し、臨時約法を廃止する。王天培はこれを批判する活動を行ったが、そのために逮捕、収監されてしまう。貴州の名士の仲介により、王は釈放された。また在学中に一度母の喪に服するため帰郷すると、王は自ら郷兵(義勇兵)を組織し、天柱で活動していた会党や匪賊を掃討している。その後、保定陸軍軍官学校を卒業し、黔軍に加入した。 王天培は護国戦争(第三革命)などで軍功をあげて次第に昇進し、後に彭漢章と共に黔軍指揮官谷正倫の有力配下となった。1920年(民国9年)11月の民九事変、さらに孫文の命による広西省の陸栄廷討伐にも谷に随従して参戦している。1922年(民国11年)1月、谷が中央直轄黔軍総司令に任命されたことに従い、彭は黔軍第1混成旅旅長、王は第2混成旅旅長にそれぞれ任命された。また、この際に孫文(孫中山)の知遇を得て、桂林で中国国民党に加入している。
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