黔軍総司令に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 05:54 UTC 版)
1920年(民国9年)11月、貴州督軍劉顕世が、甥で南方政府を支持する王文華のクーデターにより失脚する(民九事変)。また、王もこの時のクーデターの首謀者として糾弾されることを恐れ、貴州にはなかなか帰還しなかった。このため、翌年1月に、軍指揮官の中で最も高位にあった盧燾が、南方政府支持派により代理黔軍総司令に推戴されたとされる。ただし、劉顕世が失脚して間もない11月22日には既に黔軍代総司令の名義で胡瑛、谷正倫とともに広州軍政府への支持の表明と護法各省の一致行動を呼びかける声明を発している。いずれにせよ、これは王文華が戻るまでの代理の予定だったが、1921年3月16日に王が部下の袁祖銘に暗殺されるという変事が発生してしまう。結局、盧が正式に総司令に就任した。 同年5月、盧燾は、孫文(孫中山)からも貴州総司令兼貴州省長に任命された。しかし、盧は外省人であったことなども原因で十分な指導力を発揮できず、何応欽、谷正倫らが繰り広げた貴州軍の内部対立を調整できなかった。その後、北京政府の後ろ盾を得た袁祖銘が貴州帰還(定黔)を図る。大勢がすでに決したとみた盧は抵抗することなく、1922年(民国11年)4月に下野した。翌1923年(民国12年)、孫文の大本営で高級参謀をつとめている。その後、国民政府でも西南軍政委員会委員となった。
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