黔軍内での闘争に敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/04 08:27 UTC 版)
1920年(民国9年)10月、川軍(四川軍)に敗北して黔軍は貴州に退却する。この頃、貴州省では王文華ら「新派」(孫文(孫中山)支持派の新軍軍人を核とする)と劉顕世ら「旧派」(北京政府支持派の旧軍軍人・政治家を核とする)の権力闘争が佳境に差し掛かっていた。王は伯父である劉を直接手にかけることを厭い、配下の盧燾(広西省出身)を代理総司令、胡瑛(雲南省出身)を総指揮、谷を副総指揮にそれぞれ任命して省会(省都)貴陽奪取を命じ、王自身は上海にいったん退避している。 一方の劉顕世は、兄の劉顕潜率いる遊撃部隊に加え、新編第5旅旅長兼警察庁長の何応欽に新派迎撃を命じたが、すでに何は王文華らと内応の手はずを整えていた。新派でも外省人である盧燾と胡瑛は権力闘争への介入に消極的であったため、結局、副総指揮の谷が貴陽攻撃の指揮権を握る。11月10日、谷は何と協力して貴陽を急襲・攻略し、旧派幹部を粛清した(民九事変)。これにより新派が貴州省を掌握したことになったが、この際の粛清・殺戮が過度であると批判を受けたため、王文華は直ちに貴陽に戻ることができなくなってしまう。 翌1921年(民国10年)3月、王文華が北京政府を支持する配下の袁祖銘の刺客に暗殺されてしまう。これにより、代理総司令盧燾が正式に総司令となったものの、外省人の盧は指導力発揮を控え、以後、何応欽と谷正倫の間で主導権争いが展開されることになった。何は警察庁長であったために素早く貴陽を掌握し、谷はこれに対抗しえず、やむなく貴州南路衛戍司令として貴州省南部に一時撤退する。 5月、孫文が広州で非常大総統に就任し、西南各省に広西省の陸栄廷を討伐するよう呼びかけ、盧燾もこれに応じた。谷正倫も軍功をあげて何応欽に反撃するきっかけを掴みたいと願っていたことから、自ら出征を望み、援桂聯軍第4路軍として広西省へ進軍、翌月には柳州を攻略するなどの軍功をあげている。1922年(民国11年)1月、谷は孫文から中央直轄黔軍総司令に任命された。こうして地位の向上などで力を得た谷正倫は、何配下の団長2名を篭絡し、そのクーデターにより何を追い払うことに成功した。同年4月、貴陽に戻って実権を掌握している。 ところがこの頃には、北京政府の支援を受ける袁祖銘が「定黔軍」を組織して貴陽進撃の機会を伺っていた。谷正倫も袁の迎撃準備を整えようとしたが、すでに袁は谷配下の第1混成旅旅長彭漢章、第2混成旅旅長王天培と秘密裏に連携している。そして袁が貴陽に向けて進軍してくると、彭・王も内応し、他の谷配下の部隊も次々と袁の側に寝返った。万事休した盧燾と谷は下野し、谷は湖南省へ逃亡している。
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