日本留学と黔軍での台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/04 08:27 UTC 版)
1906年(光緒33年)、貴州陸軍小学に入学し、翌年、校内革命派団体である歴史研究会に加入した。1908年(光緒34年)秋に卒業し、武昌陸軍第三中学に進学している。同年冬、何応欽(貴州省出身)・朱紹良(福建省出身、後に貴州陸軍加入)と共に日本に留学し、東京振武学校で学ぶ。このとき、中国同盟会に加入した。 1911年(宣統3年)10月、武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、谷正倫は帰国し、黄興配下として漢陽で清軍と交戦している。翌1912年(民国元年)1月、南京に中華民国臨時政府が成立し、黄が陸軍総長兼参謀総長になると、谷は陸軍部少校科員に任ぜられた。1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)でも黄の下で江蘇討袁軍総司令部で職に就いたが、敗北して日本に亡命する。その後、陸軍士官学校砲兵科に進学し、1916年(民国5年)秋、卒業した。 帰国後は、谷正倫は何応欽・朱紹良と共に貴州省に戻る。貴州督軍劉顕世の甥で、黔軍(貴州軍)第1師師長である王文華に招聘され、谷は第1師で砲兵団団長に任ぜられた。1917年(民国6年)10月、護法運動の一環で黔軍総司令に任ぜられた王が四川省へ出撃することになると、谷は第7団団長に改めて任ぜられた。その後、四川省での転戦で軍功をあげ、第1団団長、第2混成旅旅長と昇進している。
※この「日本留学と黔軍での台頭」の解説は、「谷正倫」の解説の一部です。
「日本留学と黔軍での台頭」を含む「谷正倫」の記事については、「谷正倫」の概要を参照ください。
- 日本留学と黔軍での台頭のページへのリンク