日本留学と革命運動への参加とは? わかりやすく解説

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日本留学と革命運動への参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:36 UTC 版)

汪兆銘」の記事における「日本留学と革命運動への参加」の解説

生活に追われ近代教育受けられなかったことを嘆いていた汪兆銘転機むかえたのは、1904年光緒30年)、科挙中国の高級官吏任用試験)に合格し清朝広東省政府官費留学生選ばれて、日本当時大日本帝国)への派遣決まったことであった日露戦争中の同年9月汪兆銘東京市和仏法律学校法政速成科現在の法政大学)に進学した速成科は、中国人留学生のために特設されたものであり、授業通訳通じて行われていたので日本語知らなくても法学授業理解することができた。法政同時期に学んだ人物同郷胡漢民執信らがいる。 日露戦争について汪は「心から日本支持する」と述べ、一東洋人として日本勝利歓喜したまた、日本国民熱烈な愛国心は、若い私の胸中を非常に燃え立たせた」とのちに述懐している。 留学中汪兆銘は、梅謙次郎富井政章山田三良らの講義好んで聴いたが、それにもまして彼に大きな影響与えたのは憲法学講義であったそれまで君臣の義」といった儒教的価値観縛られていたのに対し憲法学によって国家観念主権在民思想を学ぶにつれ、汪兆銘革命への傾斜強めていったのである一方、彼は明治維新歴史興味持ち、特に西郷隆盛勝海舟2人には強く惹かれて、彼らに関する書籍読みあさった留学中、汪は孫文革命思想にふれて「興中会」(1894年結成)に入った革命派は、広東省出身者の多い興中会のほか、湖南省出身者の多い「華興会」(1903年結成)、浙江省出身者の多い「光復会」(1904年結成)があり、それぞれ横の連絡欠きつつ、武装蜂起くり返していた。日露戦争における日本勝利ロシア帝国における血の日曜日事件などにより、在日中国人のあいだでは革命気分高まり宮崎滔天らの奔走もあって興中会華興会光復会大同団結図られ1905年8月3つの革命会派孫文来日機に中国同盟会合流した。このときの孫文演説は若い汪兆銘心を打ちかねてより孫文に対して抱いていた信頼尊敬の念不動のものとなった孫文また、汪兆銘厚く信頼し中国同盟会評議部長抜擢し、のちには執行部書記長兼務させた。なお、同盟会の会章は、黄興陳天華宋教仁馬君武汪兆銘ら8人の起草よるものである。 中国革命同盟会は、「民族民権民生」の三民主義綱領として掲げた1905年11月には、中国同盟会機関誌民報』が発行されることになり、汪兆銘章炳麟補佐して、故漢民・陳天華執信・宋教仁同志とともに機関紙編集スタッフ務めこの頃から「精衛」という号を用いようになった汪兆銘は『民報』において、その文才いかんなく発揮し、その発行部数4、5部に上りひそかに中国国内持ち込まれて、大きな影響力を及ぼすようになると、汪の名も広く知られるようになった当時汪兆銘長兄清朝両広総督岑春煊軍司令部勤務していたが、ある時、酔った総督長兄汪兆銘差し出すよう要求したことがあった。また、長兄父親代わりとして汪兆銘許嫁をすでに決めていた。革命家として九族累が及ぶことを畏れ、古い婚姻制度反対の立場にあった汪兆銘は「家庭罪人」と称して長兄あてに絶縁状送り宗族関係を断絶して婚約解消強く求めた中国同盟会の『民報』と梁啓超主宰する新民叢報』とのあいだでは、革命共和か、君主立憲かをめぐっての大論戦繰り広げられた。保皇派梁啓超当時立憲君主制主張していたが、その確立あくまでも遠い将来のことであるとして、当面はその準備段階として「開明専制」、すなわち開明的英邁な君主による皇帝独裁政治唱えた。それに対し汪兆銘は「自由・平等・博愛」が人類普遍性根ざしたのであるとして民主主義論を唱え共和政体主張したのである。ここには、ジャン=ジャック・ルソー人民主権説の影響みられる梁啓超がコンラート・ボルンハックや穂積八束国家客体説を援用すれば、汪兆銘ゲオルグ・イェリネック美濃部達吉国家法人説依拠して、それに反論加えるというように、汪はルソー思想とらわれずパラダイム異な諸学説縦横無尽引用し革命派なかでも理論家として名を馳せた1906年6月汪兆銘法政速成科300余名中2番という優秀な成績卒業した官費留学期限切れたが、汪はそのまま法政大学専門部進み革命運動続けた専門部学費私費でまかなわざるを得なかったが、彼はこれを『法規大全』など日本書籍翻訳することで捻出した。これにより官費の倍近く収入を得ることができたからであった孫文は、中国同盟会成立以降湖南省広東省10度わたって武装蜂起試みていたが、いずれも鎮圧され失敗終わっていた。1907年萍郷蜂起呼応すべく、許秋らが孫文支援求めた件では、同盟会から廖仲愷らが派遣されたが、これには胡漢民・陳少白・汪兆銘参画している。孫文また、次の武装蜂起計画指導したり、華僑から軍資金集めたりするために、東南アジア欧米中国の間を奔走しており、汪兆銘もそれにしたがったこの頃イギリス領マラヤ(現、マレーシア)のペナン島裕福な華僑出身で、のちに汪の妻となる陳璧君革命運動参加しており、『民報編集たずさわっている。 汪は、1907年書いた革命決心」のなかで「革命決心は、誰もが持っている惻隠の情、いうならば困っている人を見捨てておけない心情からはじまるものだ」とし、また、「革命志す者は、自己の身体あるいは釜として4億の民に満ち足りた思い味わわせることをめざすべき」と唱えた。『民報』は清朝からの依頼受けた日本政府取締りにより1908年発行停止追い込まれたが、汪はその後編集責任者として秘密出版行った。『民報』は1910年の第26をもって廃刊となったが、「革命決心」はここに収載されている。 孫文根拠地フランス領インドシナ(現、ベトナム)の首府ハノイ、ついで英領マラヤシンガポールへと移した。汪は、孫文一番弟子として強い信頼得ており、終始彼と行動を共にした。孫文フランスへ去った後は東南アジアにおける中国同盟会勢力拡充に力を注いでいる。1909年汪兆銘囲んで陳璧君、方君瑛、曾醒、黎仲実の4人が、同志として生死ともにすることを誓い合った。この5人は、のちに広東省共同の墓まで建てており、このころ、汪は陳璧君名義上の結婚をしたと考えられている。 一方たび重なる武装蜂起失敗は、中国同盟会内外から動揺させた。梁啓超らの保皇派は、孫文汪兆銘を「遠距離革命家」、すなわち「自分たちは豪華な大邸宅で優雅に暮らしながら、下々人びと騙して武装蜂起させ、いたずらに彼らを死に追いやっている」と批判したのである一方中国同盟会内部では旧光復会系の大学者章炳麟らが公然と孫文批判するようになって同盟分裂の危機訪れたのであるそうしたなか、ミハイル・バクーニンアナーキズム影響受けた汪兆銘は、再び同盟会の団結固め革命運動鼓舞するためには、自ら率先垂範して清朝政府要人暗殺するよりほかないと思い詰めるうになる孫文黄興胡漢民らは、汪の計画を知るや反対し、思いとどまるよう何度も翻意促したが、汪は聞き入れなかった。 1910年宣統2年)、次第直接行動主義色彩強めた汪は、黄復生・喩紀陳璧君らの同志とともに清朝要人暗殺計画とりかかった英領マラヤ育った陳璧君は英語が堪能であり、英語で書かれ爆弾装置取扱書を読めるという理由で、この計画参加した。 汪は北京写真屋になりすまし密かに時限爆弾用意摂政醇親王載灃宣統帝溥儀の父)をねらったものの事前に事は露見し未遂終わった。汪らはその場逃げたものの、すぐに逮捕される気配がなかったことから汪と黄復生は北京戻り、喩紀陳璧君らは北京離れ次の暗殺準備取りかかった。しかし、その後目撃者現れ4月16日、汪は黄復生とともに暗殺犯として逮捕された。 汪は死刑宣告覚悟していたが、尋問の際の堂々とした態度供述書すらすらと書いた様子から、その才能惜しまれ革命派との融和を図る民政部尚書粛親王善耆意向もあって罪一等を減ぜられ、終身禁固刑処され陳璧君は、獄中汪兆銘何度も手紙送っている。 禁固刑となったことが伝わらなかったパリでは、同地発行されていた同盟機関誌新世紀週刊』に、汪兆銘刑死悼む一文掲載された。汪は、載灃暗殺には失敗したものの、当初の目的一つである中国同盟会士気高めることには、ある程度成功したといえる

※この「日本留学と革命運動への参加」の解説は、「汪兆銘」の解説の一部です。
「日本留学と革命運動への参加」を含む「汪兆銘」の記事については、「汪兆銘」の概要を参照ください。

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