日本留学と革命運動への参加
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「汪兆銘」の記事における「日本留学と革命運動への参加」の解説
生活に追われて近代教育を受けられなかったことを嘆いていた汪兆銘が転機をむかえたのは、1904年(光緒30年)、科挙(中国の高級官吏任用試験)に合格し、清朝広東省政府の官費留学生に選ばれて、日本(当時の大日本帝国)への派遣が決まったことであった。日露戦争中の同年9月、汪兆銘は東京市の和仏法律学校法政速成科(現在の法政大学)に進学した。速成科は、中国人留学生のために特設されたものであり、授業は通訳を通じて行われていたので日本語を知らなくても法学の授業を理解することができた。法政で同時期に学んだ人物に同郷の胡漢民や朱執信らがいる。 日露戦争について汪は「心から日本を支持する」と述べ、一東洋人として日本の勝利に歓喜した。また、「日本国民の熱烈な愛国心は、若い私の胸中を非常に燃え立たせた」とのちに述懐している。 留学中の汪兆銘は、梅謙次郎・富井政章・山田三良らの講義を好んで聴いたが、それにもまして彼に大きな影響を与えたのは憲法学の講義であった。それまで「君臣の義」といった儒教的価値観に縛られていたのに対し、憲法学によって国家の観念や主権在民の思想を学ぶにつれ、汪兆銘は革命への傾斜を強めていったのである。一方、彼は明治維新の歴史に興味を持ち、特に西郷隆盛と勝海舟の2人には強く惹かれて、彼らに関する書籍を読みあさった。 留学中、汪は孫文の革命思想にふれて「興中会」(1894年結成)に入った。革命派は、広東省出身者の多い興中会のほか、湖南省出身者の多い「華興会」(1903年結成)、浙江省出身者の多い「光復会」(1904年結成)があり、それぞれ横の連絡を欠きつつ、武装蜂起をくり返していた。日露戦争における日本の勝利やロシア帝国における血の日曜日事件などにより、在日中国人のあいだでは革命の気分が高まり、宮崎滔天らの奔走もあって興中会・華興会・光復会の大同団結が図られ、1905年8月、3つの革命会派は孫文の来日を機に中国同盟会に合流した。このときの孫文の演説は若い汪兆銘の心を打ち、かねてより孫文に対して抱いていた信頼と尊敬の念は不動のものとなった。孫文もまた、汪兆銘を厚く信頼し、中国同盟会評議部長に抜擢し、のちには執行部の書記長を兼務させた。なお、同盟会の会章は、黄興・陳天華・宋教仁・馬君武・汪兆銘ら8人の起草によるものである。 中国革命同盟会は、「民族・民権・民生」の三民主義を綱領として掲げた。1905年11月には、中国同盟会の機関誌『民報』が発行されることになり、汪兆銘は章炳麟を補佐して、故漢民・陳天華・朱執信・宋教仁ら同志とともに機関紙の編集スタッフを務め、この頃から「精衛」という号を用いるようになった。汪兆銘は『民報』において、その文才をいかんなく発揮し、その発行部数が4、5万部に上り、ひそかに中国国内に持ち込まれて、大きな影響力を及ぼすようになると、汪の名も広く知られるようになった。 当時、汪兆銘の長兄は清朝の両広総督岑春煊の軍司令部に勤務していたが、ある時、酔った総督が長兄に汪兆銘を差し出すよう要求したことがあった。また、長兄は父親代わりとして汪兆銘の許嫁をすでに決めていた。革命家として九族に累が及ぶことを畏れ、古い婚姻制度に反対の立場にあった汪兆銘は「家庭の罪人」と称して長兄あてに絶縁状を送り、宗族関係を断絶して婚約解消を強く求めた。 中国同盟会の『民報』と梁啓超の主宰する『新民叢報』とのあいだでは、革命共和か、君主立憲かをめぐっての大論戦が繰り広げられた。保皇派の梁啓超は当時、立憲君主制を主張していたが、その確立はあくまでも遠い将来のことであるとして、当面はその準備段階として「開明専制」、すなわち開明的で英邁な君主による皇帝独裁政治を唱えた。それに対し、汪兆銘は「自由・平等・博愛」が人類の普遍性に根ざしたものであるとして民主主義論を唱え、共和政体を主張したのである。ここには、ジャン=ジャック・ルソーの人民主権説の影響がみられる。梁啓超がコンラート・ボルンハックや穂積八束の国家客体説を援用すれば、汪兆銘がゲオルグ・イェリネックや美濃部達吉の国家法人説に依拠して、それに反論を加えるというように、汪はルソーの思想にとらわれず、パラダイムの異なる諸学説を縦横無尽に引用し、革命派のなかでも理論家として名を馳せた。 1906年6月、汪兆銘は法政速成科を300余名中2番という優秀な成績で卒業した。官費留学の期限は切れたが、汪はそのまま法政大学専門部へ進み、革命運動を続けた。専門部の学費は私費でまかなわざるを得なかったが、彼はこれを『法規大全』など日本の書籍を翻訳することで捻出した。これにより官費の倍近くの収入を得ることができたからであった。 孫文は、中国同盟会の成立以降、湖南省や広東省で10度にわたって武装蜂起を試みていたが、いずれも鎮圧され、失敗に終わっていた。1907年、萍郷蜂起に呼応すべく、許雪秋らが孫文に支援を求めた件では、同盟会から廖仲愷らが派遣されたが、これには胡漢民・陳少白・汪兆銘も参画している。孫文はまた、次の武装蜂起を計画・指導したり、華僑から軍資金を集めたりするために、東南アジアと欧米と中国の間を奔走しており、汪兆銘もそれにしたがった。この頃、イギリス領マラヤ(現、マレーシア)のペナン島の裕福な華僑出身で、のちに汪の妻となる陳璧君も革命運動に参加しており、『民報』編集にたずさわっている。 汪は、1907年に書いた「革命之決心」のなかで「革命の決心は、誰もが持っている惻隠の情、いうならば困っている人を見捨てておけない心情からはじまるものだ」とし、また、「革命を志す者は、自己の身体を薪あるいは釜として4億の民に満ち足りた思いを味わわせることをめざすべき」と唱えた。『民報』は清朝からの依頼を受けた日本政府の取締りにより1908年に発行停止に追い込まれたが、汪はその後、編集責任者として秘密出版を行った。『民報』は1910年の第26期をもって廃刊となったが、「革命之決心」はここに収載されている。 孫文は根拠地をフランス領インドシナ(現、ベトナム)の首府ハノイ、ついで英領マラヤのシンガポールへと移した。汪は、孫文の一番弟子として強い信頼を得ており、終始彼と行動を共にした。孫文がフランスへ去った後は東南アジアにおける中国同盟会の勢力拡充に力を注いでいる。1909年、汪兆銘を囲んで陳璧君、方君瑛、曾醒、黎仲実の4人が、同志として生死をともにすることを誓い合った。この5人は、のちに広東省に共同の墓まで建てており、このころ、汪は陳璧君と名義上の結婚をしたと考えられている。 一方、たび重なる武装蜂起の失敗は、中国同盟会を内外から動揺させた。梁啓超らの保皇派は、孫文・汪兆銘を「遠距離革命家」、すなわち「自分たちは豪華な大邸宅で優雅に暮らしながら、下々の人びとを騙して武装蜂起させ、いたずらに彼らを死に追いやっている」と批判したのである。一方、中国同盟会の内部では旧光復会系の大学者、章炳麟らが公然と孫文を批判するようになって、同盟会分裂の危機が訪れたのである。そうしたなか、ミハイル・バクーニンのアナーキズムの影響を受けた汪兆銘は、再び同盟会の団結を固め、革命運動を鼓舞するためには、自ら率先垂範して清朝政府要人を暗殺するよりほかないと思い詰めるようになる。孫文・黄興・胡漢民らは、汪の計画を知るや反対し、思いとどまるよう何度も翻意を促したが、汪は聞き入れなかった。 1910年(宣統2年)、次第に直接行動主義の色彩を強めた汪は、黄復生・喩紀雲・陳璧君らの同志とともに清朝要人の暗殺計画にとりかかった。英領マラヤに育った陳璧君は英語が堪能であり、英語で書かれた爆弾装置の取扱書を読めるという理由で、この計画に参加した。 汪は北京で写真屋になりすまし、密かに時限爆弾を用意、摂政王醇親王載灃(宣統帝溥儀の父)をねらったものの事前に事は露見し、未遂に終わった。汪らはその場は逃げたものの、すぐに逮捕される気配がなかったことから汪と黄復生は北京に戻り、喩紀雲や陳璧君らは北京を離れ、次の暗殺準備に取りかかった。しかし、その後目撃者が現れ、4月16日、汪は黄復生とともに暗殺犯として逮捕された。 汪は死刑の宣告を覚悟していたが、尋問の際の堂々とした態度や供述書をすらすらと書いた様子から、その才能が惜しまれ、革命派との融和を図る民政部尚書粛親王善耆の意向もあって罪一等を減ぜられ、終身禁固刑に処された 陳璧君は、獄中の汪兆銘に何度も手紙を送っている。 禁固刑となったことが伝わらなかったパリでは、同地で発行されていた同盟会機関誌『新世紀週刊』に、汪兆銘の刑死を悼む一文が掲載された。汪は、載灃の暗殺には失敗したものの、当初の目的の一つである中国同盟会の士気を高めることには、ある程度成功したといえる。
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