日本留学と黔軍での台頭・失脚とは? わかりやすく解説

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日本留学と黔軍での台頭・失脚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:11 UTC 版)

何応欽」の記事における「日本留学と黔軍での台頭・失脚」の解説

何其敏の子7歳にて私塾に学ぶ。1906年光緒32年)、貴州陸軍小学堂に入学し1909年宣統元年)、武昌陸軍第三中学進学した同年冬、谷正倫と共に日本留学し東京振武学校第11期学習した。このときに蔣介石とも知り合い、また中国同盟会加入した1911年宣統3年秋に辛亥革命勃発すると、何応欽帰国して上海に赴き、滬軍都陳其美の下で革命派として活動した1913年民国2年)の第二革命二次革命)で革命派敗北すると、何応欽日本逃れ軍事学習再開する1914年12月陸軍士官学校中国学生隊第11期として入校同期朱紹良賀耀組らがいた。1916年5月陸士(第28期に相当)を卒業して帰国し、黔軍(貴州陸軍)第1師歩兵第4団団長に任命されるまた、新派」の指導者王文華の妹の王文湘と結婚し何応欽自身新派幹部目されるうになる以後貴州講武学校校長少年貴州会主任、黔軍第5混成旅旅長、貴陽警備司令などを歴任した1920年民国9年11月10日何応欽王文華配下同僚谷正倫と共に王文華指示旧派粛清の兵変を敢行し、貴州督軍劉顕世王文華母方叔父)を下野追い込んだ(民九事変)。ところが1921年民国10年3月王文華北京政府支持する配下袁祖銘刺客上海暗殺されてしまう。このため王文華委任により黔軍総司令代理務めていた盧燾正式に総司令となったものの、外省人だった盧燾指導力発揮できず、何応欽谷正倫の間で主導権争い展開された。 当初省会たる貴陽警察権を握る何応欽優勢だったが、谷正倫は省外で孫文孫中山)のために軍功をあげるなどして次第軍事力拡大1922年民国11年1月には孫文から中央直轄黔軍総司令任命される。これにより形勢逆転し、さらに谷正倫何応欽配下買収して兵変を起こさせ、ついに何応欽貴州から駆逐されてしまった。まもなく何応欽雲南に赴き、孫文支持する滇軍総司令顧品珍から雲南陸軍講武学校校長起用される。ところが何応欽怨みを抱く旧派刺客銃撃され瀕死の重傷負い上海療養することになった

※この「日本留学と黔軍での台頭・失脚」の解説は、「何応欽」の解説の一部です。
「日本留学と黔軍での台頭・失脚」を含む「何応欽」の記事については、「何応欽」の概要を参照ください。

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