日本留学と黔軍での台頭・失脚
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「何応欽」の記事における「日本留学と黔軍での台頭・失脚」の解説
何其敏の子。7歳にて私塾に学ぶ。1906年(光緒32年)、貴州陸軍小学堂に入学し、1909年(宣統元年)、武昌陸軍第三中学に進学した。同年冬、谷正倫らと共に日本に留学し、東京振武学校第11期で学習した。このときに蔣介石とも知り合い、また中国同盟会に加入した。1911年(宣統3年)秋に辛亥革命が勃発すると、何応欽は帰国して上海に赴き、滬軍都督陳其美の下で革命派として活動した。 1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)で革命派が敗北すると、何応欽は日本に逃れ軍事の学習を再開する。1914年12月に陸軍士官学校に中国学生隊第11期として入校。同期に朱紹良・賀耀組らがいた。1916年5月、陸士(第28期に相当)を卒業して帰国し、黔軍(貴州陸軍)第1師歩兵第4団団長に任命される。また、「新派」の指導者王文華の妹の王文湘と結婚し、何応欽自身も新派の幹部と目されるようになる。以後、貴州講武学校校長、少年貴州会主任、黔軍第5混成旅旅長、貴陽警備司令などを歴任した。 1920年(民国9年)11月10日、何応欽は王文華配下の同僚の谷正倫と共に王文華の指示で旧派粛清の兵変を敢行し、貴州督軍劉顕世(王文華の母方の叔父)を下野に追い込んだ(民九事変)。ところが1921年(民国10年)3月、王文華が北京政府を支持する配下の袁祖銘の刺客に上海で暗殺されてしまう。このため、王文華の委任により黔軍総司令代理を務めていた盧燾が正式に総司令となったものの、外省人だった盧燾は指導力を発揮できず、何応欽と谷正倫の間で主導権争いが展開された。 当初は省会たる貴陽の警察権を握る何応欽が優勢だったが、谷正倫は省外で孫文(孫中山)のために軍功をあげるなどして次第に軍事力を拡大、1922年(民国11年)1月には孫文から中央直轄黔軍総司令に任命される。これにより形勢は逆転し、さらに谷正倫は何応欽の配下を買収して兵変を起こさせ、ついに何応欽は貴州から駆逐されてしまった。まもなく何応欽は雲南に赴き、孫文を支持する滇軍総司令顧品珍から雲南陸軍講武学校校長に起用される。ところが何応欽に怨みを抱く旧派の刺客に銃撃されて瀕死の重傷を負い、上海で療養することになった。
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