日本留学と華興会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 17:00 UTC 版)
1902年、黄興は湖北省の留学生として渡日し、5月、東京の弘文学院師範科に入学した。文章家であった彼は、留学生の雑誌や啓蒙出版にたずさわり、また、日本の教育行政法の翻訳なども手がけた。 当時の中国人の多くは、北清事変後も満洲に進駐しつづけるロシア帝国軍に対して反感を募らせており、また、これは日露間でも問題が深刻化していることから、中国人留学生たちは義勇団体・拒俄団(「俄」はロシアの意)を組織した。1903年4月29日、東京神田の錦輝館で拒俄大会が開かれ、約500名の中国人留学生にこれに参加した。ただちに義勇軍が組織され、黄興も130名余の志願者の列に加わったが、神田警察署の要望で「拒俄義勇軍」の名は穏やかならずとして「軍国民教育会」の名に改称された。そして、中国人のなかには外国でいたずらに声をあげるよりも、むしろ郷里にもどって革命運動に身を投じるべきであるとする反省がなされて「帰郷実践運動」がおこった。黄興は、この運動のさきがけとして1903年6月、上海・武漢を経由して郷里の長沙に帰った。帰郷の途中、母校の両湖書院に立ち寄ってスピーチをおこない、鄒容の著した『革命軍』というパンフレットを配布した。長沙では明徳学堂の教員となって子弟の教育にあたり、革命思想を鼓吹した。 1903年11月(12月説もあり)、湖南において宋教仁・陳天華・劉揆一らと秘密結社の華興会の準備会を開き、1904年3月には華興会が成立して、その総理となった。ここでは章炳麟・陳天華・劉揆一・宋教仁などと交わって革命の実行計画を進めた。 西太后の誕生日である旧暦の10月10日(1904年11月16日)、湖南の文官・武官は奉賀のために長沙の皇殿に集まることとなっていた。華興会の会員は彼らを爆殺して長沙を占領する計画を立てた。蜂起にはまとまった人数が必要であり、武備学堂(士官学校)の学生や新旧各軍の兵士のほかに湖南の任侠団体である哥老会の頭目の馬福益と連絡を取って洞窟のなかで杯をとりあう一方、広西義軍と協力して革命計画実行に邁進した。しかし、これは事前に両湖総督の張之洞に探知され、上海に逃亡した。上海には2カ月前後潜伏したが、そこで広西巡撫の王之春暗殺事件の嫌疑をかけられて逮捕される(ただし、数日後に釈放された)という一件があったため、東京へと亡命した。1904年12月もしくは1905年1月のことである。黄興の革命論は、中国の特殊性に基づいており、フランス革命的な首都革命に代わる各省ごとの自立を主張したものだった。 1905年2月、馬福益は再び武装蜂起を計画した。黄興と劉揆一は、この報を聞いて密かに帰国し、漢陽で小銃43丁と弾薬を調達して馬福益に渡そうとしたが、蜂起は失敗し、やむなく黄興らは商人や官吏に変装しながら日本に再び亡命した。
※この「日本留学と華興会」の解説は、「黄興」の解説の一部です。
「日本留学と華興会」を含む「黄興」の記事については、「黄興」の概要を参照ください。
- 日本留学と華興会のページへのリンク