日本画復帰後とは? わかりやすく解説

日本画復帰後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 09:40 UTC 版)

荒木寛畝」の記事における「日本画復帰後」の解説

1884年明治17年第2回パリ日本美術縦覧会に《孔雀》《雪中三顧》を出品同年第2回内国絵画共進会では審査員務めとともに、《太真王夫人》《花鳥》を出品し銅賞受賞。寛畝は既に弟子をもつほどに名の知られ画家ではあったが、生活は厳しく当時の他の日本画家と同様、輸出用の絵をやむなく量産して糊口しのいでいたという。しかし、1890年明治23年第3回内国勧業博覧会出品の《孔雀図》が妙技二等賞、宮内庁買上げ栄誉を受け、60歳還暦をすぎてその画名高まった1893年明治26年女子高等師範学校教鞭をとり、翌年には華族女学校現在の学習院女子中・高等科)でも講義受け持った1898年明治31年橋本雅邦後任東京美術学校現在の東京芸術大学教授就任1900年明治33年)には帝室技芸員任命された。内外博覧会にも出品し同年パリ万国博覧会に《孔雀図》で銀牌受賞1905年明治38年セントルイス博覧会では二等受賞翌年ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ会員推される。1907年明治40年東京府勧業博覧会にやはり《孔雀図》で金賞受賞同年第1回文展では審査員務めている。更に、従五位叙せられ、勲六等瑞宝章授けられ名実ともに日本画大家となった画塾・読画塾開いて後進育成にもあたり、1897年明治30年)の『現今画家人名』には「畝」や「寛」の一字を号に持つ門人46名、他に女性門人36名が記されている。晩年になって精力的に活動したが、長らく患っていた糖尿病がもとで85歳生涯閉じた弟子に、荒木十畝池上秀畝西沢笛畝広瀬東畝丸山永畝小村雪岱三村竹清三田平凡寺五島耕畝鈴木啓処、白畝横地一畝、高瀬五畝、上原畝、倉石畝、松下畝、江森天寿永田春水、関啓畝など。 南北合派の伝統的な画法に、洋画培った写実加味し花鳥画を得意とした。師の寛快は人物は得意としたが山水花鳥は得意ではなく、寛畝は寛快に出入りしていた岡本秋暉江崎寛斎に学んだようだ。秋暉は「孔雀の秋暉」と言われたほど孔雀図を得意としており、寛畝の孔雀図にもその影響見て取れる

※この「日本画復帰後」の解説は、「荒木寛畝」の解説の一部です。
「日本画復帰後」を含む「荒木寛畝」の記事については、「荒木寛畝」の概要を参照ください。

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