日本画復帰後
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1884年(明治17年)第2回パリ府日本美術縦覧会に《孔雀》《雪中三顧》を出品。同年、第2回内国絵画共進会では審査員を務めるとともに、《太真王夫人》《花鳥》を出品し銅賞を受賞。寛畝は既に弟子をもつほどに名の知られた画家ではあったが、生活は厳しく当時の他の日本画家と同様、輸出用の絵をやむなく量産して糊口をしのいでいたという。しかし、1890年(明治23年)第3回内国勧業博覧会出品の《孔雀図》が妙技二等賞、宮内庁買上げの栄誉を受け、60歳の還暦をすぎてその画名は高まった。 1893年(明治26年)女子高等師範学校で教鞭をとり、翌年には華族女学校(現在の学習院女子中・高等科)でも講義を受け持った。1898年(明治31年)橋本雅邦の後任で東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任。1900年(明治33年)には帝室技芸員に任命された。内外の博覧会にも出品し、同年のパリ万国博覧会に《孔雀図》で銀牌受賞。1905年(明治38年)セントルイス博覧会では二等賞受賞。翌年、ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツの会員に推される。1907年(明治40年)東京府勧業博覧会にやはり《孔雀図》で金賞受賞。同年の第1回文展では審査員を務めている。更に、従五位に叙せられ、勲六等瑞宝章を授けられ、名実ともに日本画の大家となった。画塾・読画塾を開いて後進の育成にもあたり、1897年(明治30年)の『現今画家人名』には「畝」や「寛」の一字を号に持つ門人が46名、他に女性の門人36名が記されている。晩年になっても精力的に活動したが、長らく患っていた糖尿病がもとで85歳の生涯を閉じた。弟子に、荒木十畝、池上秀畝、西沢笛畝、広瀬東畝、丸山永畝、小村雪岱、三村竹清、三田平凡寺、五島耕畝、鈴木啓処、森白畝、横地一畝、高瀬五畝、上原桃畝、倉石松畝、松下雲畝、江森天寿、永田春水、関啓畝など。 南北合派の伝統的な画法に、洋画で培った写実を加味した花鳥画を得意とした。師の寛快は人物は得意としたが山水や花鳥は得意ではなく、寛畝は寛快に出入りしていた岡本秋暉や江崎寛斎に学んだようだ。秋暉は「孔雀の秋暉」と言われたほど孔雀図を得意としており、寛畝の孔雀図にもその影響が見て取れる。
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