日本画の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 08:54 UTC 版)
奈良時代から平安時代にかけて、中国や朝鮮半島などから渡来した技法や様式、あるいはそれに倣い日本で描かれた図画が「唐絵」と呼ばれた。これに対して日本的な主題を描くものが産まれ、「大和絵」と呼ばれた。その後、「漢画」に対する「和画」や、「唐画」に対する「和画」などと、呼び方やその区分は時代によって異るが、海外から新しく流入した画風に対し、旧来のものを日本の伝統的なものと考えるパターンは繰り返されていた。 「日本画」は、1870年代にヨーロッパからもたらされた油彩画すなわち西洋画(または「洋画」)に対して、それまでの日本にあった図画に対して用いられた用語である。 1876年、明治政府は西洋画法を学ぶため、イタリアからアントニオ・フォンタネージを招き、工部美術学校を創立した。浅井忠らがその第1期生であった。その2年後の1878年にフォンタネージは帰国。明治初期の画壇は日本の伝統絵画が低調であったのと重なり、西洋画への転向が進んだ時期であった。一方、アメリカ合衆国からアーネスト・フェノロサが来日し、東京帝国大学で哲学などを教えた。 フェノロサが日本の美術に強い関心を示し、評価したことは有名である。フェノロサが1882年に龍池会で行った講演『美術真説』で使った Japanese painting の翻訳が「日本画」という言葉の初出である。この講演でフェノロサは次のような点を日本画の特徴として挙げ、優れたところと評価している。 写真のような写実を追わない。 陰影が無い。 鉤勒(こうろく、輪郭線)がある。 色調が濃厚でない。 表現が簡潔である。 フェノロサの通訳を勤めており助手であった岡倉覚三(のちの天心)らはこれに大きく力づけられ、1889年に東京美術学校(後の東京藝術大学)を開くと、西洋画の教育を排し、絵画としては橋本雅邦らを教師として日本画科をのみ設けた。第1期生には横山大観らがいる。 西洋画を教えていた工部美術学校は、これに先立ち1883年に閉鎖されている。 岡倉は1890年には東京美術学校の校長にもなるが、1898年に職を追われ、横山らと日本美術院を作った。岡倉らが東京美術学校、日本美術院で育てようとした日本画は旧来の技法や様式を守るだけのものではなく、西洋画から採り入れるものを採り、それと対抗できるような日本の絵画であった。 橋本雅邦は兄弟子狩野芳崖とともに狩野派の出身でありながら、独自の画風を拓こうとした画家であったし、横山も新しい技法を開発している。 フェノロサが最初に使った「日本画」という言葉は、西洋から渡来した油彩画に対して、それまでに日本にあった図画全般を単に指すものではなく、中国や朝鮮半島に由来しながらも、日本の中で熟成、独自に発展した様式について言っているものとされる。しかし、これに発して岡倉らが育てて現在に至る日本画はそれとも異り、洋画の対抗勢力としてその後に発達したものである。その意味では日本画は明治維新以降のものであり、戦前の横山大観が日本画家であっても、安土桃山時代の狩野永徳は日本画家ではない。 英国から独立を果たし、南北戦争を経て安定したアメリカ合衆国では、1876年にボストン美術館が設立された。フェノロサは1890年に帰国後その初代日本部長となり、岡倉はその後を引き継いで1910年、ボストン美術館中国・日本美術部長となる。 日本における洋画と日本画はその後、互いに影響を与えながらも対抗的に併存、発展してきた。しかし今日では、主題や様式において、その境界を定めることが可能な画学知識として体系化されておらず、美術大学等、画壇等、識者間においても違いは画材に依存する経験論しか理解されていない現状とも言える。
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