日本画の革新
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/23 03:25 UTC 版)
紫江は常々「日本画がこんなに固まってしまったんでは仕方ありゃあしない。とにかく破壊するんだ。出来上がってしまったものは、どうしても一度打ち壊さなくちゃ駄目だ。そうすると誰かが又建設するだろう。僕は壊すから君達、建設してくれ給え。」「徳川以降の絵はひどく堕落している。何と言っても建設より破壊が先だ。」「暢気に描け。芸術に理窟はいらない。何事にも拘束されず、自由に、快活に自己の絵を描け」と仲間たちに語っていた。日本画の因習を壊そうとし、主題、構図、彩色など絵画の全ての面で自由な創意による新しい日本画への改革こそ、紫江の生涯をかけた命題であった。 その芸術的革新性と、若手の親分格としての豪放な性格から、将来を大いに期待されたが、酒による肝臓病と脳溢血のため、35歳で死去。墓所は世田谷区北烏山の妙高寺(烏山寺町内)。墓石は安田靫彦が考案し、施主は原三渓が務めた。紫江の人柄について、靫彦は「君は極めて意志の強い人であった。実によい頭脳をもって居た人であった。あの燃える様な感情を持って居ながら、一方に常に緻密な頭脳で平静な判断や内省を行って居た。」といい、速水御舟は「氏は敵とも未方ともならないやうな人は嫌いであった。又なかなか情に厚い人で、且つ道徳的の人であった」と記している。
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