奈良時代から平安時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 23:37 UTC 版)
当社に関係する最初の確実な史料は、延暦22年(803年)の竈門山寺(かまどさんじ:当社の神宮寺)に関する記載である。この記事に見えるように、当社は奈良時代にはすでに神仏習合の状態であったと見られている。 「竈門神」については、承和7年(840年)に従五位上の神階が叙された記事を初見として、神階はその後嘉祥3年(850年)に正五位上(従五位上?)、貞観元年(859年)に従四位下、元慶3年(879年)に従四位上、寛平8年(896年)に正四位上に上った。 また、承和9年(842年)には奉幣の記事が見えるほか、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、筑前国御笠郡に「竃門神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。なお、当時の社名の訓みは一般に「カマト」と付されるが、「カマカト」と付す写本もある。 社殿に関しては、長治2年(1105年)の焼亡の記事に始まり、御占・遷宮の記事を経て、久寿2年(1155年)に再度焼亡とそれに伴う訴えの記事が見える。社司は、天元2年(979年)の段階では大宮司が一山の貫主を担っていたが、11世紀末頃には神仏一体となっており、大山寺別当が当社含め一山を取り仕切っていたと見られている。長治2年(1105年)には、当社神宮寺の大山寺の別当職を巡り、延暦寺と石清水八幡宮が争いを見せた。 嘉承元年(1106年)には当社は正一位の極位に達し、この頃には最も宝満山の勢いがあったといわれ、当時の当社を「九国総鎮守」と記す伝も見える。また八幡神関係の文書には竈門神を八幡神(応神天皇)の伯母とする記載が見え、大宰府と関わる当社の政治的影響力と八幡神の関わりが指摘される。
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