奈良時代に律令に定める本来業務を行っていた陰陽師
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津守通(つもりのとおる) ? - ? 奈良時代初期の渡来人系の陰陽師。「津守連道」とも。持統天皇・草壁皇子に重用され、敵対する大津皇子の密会を公の場で占い暴露した。その後に大津皇子が詠んだ和歌(『万葉集』巻2・第108首)、 < 大津皇子、石川女郎(いしかはのいらつめ)に竊(しぬ)ひ婚(あ)ひたまへる時、津守連通(つもりのむらじとほる)が其の事を占(うら)ひ露はせれば、皇子のよみませる御歌一首 > 『大船(おほぶね)の津守が占(うら)に告(の)らむとは兼ねてを知りて我が二人寝し』 (大意):< 大津皇子と石川郎女の密会の事実が、陰陽師の津守連通の占筮で露見した際に、大津皇子が詠んだ一首 > 『大船(密会という目立つ大胆な行動の例え)に乗れば港湾管理者の監視下(「津を守る人の監視」と陰陽師である「津守通」の掛け言葉)のウラ(港が接する「浦」と「占い」の掛け言葉)で見つかるだろうと重々承知の上で、私たち二人は寝たんだよ』 がよく知られている。 従五位下・美作守 714年(和銅7年)10月。従五位上 724年(神亀元年)10月(『続日本紀』巻第九) 高金蔵(信成) こうきんぞう(しんぜい) ? - ? 高句麗より帰来。法名は「信成」。 陰陽師 701年(大宝元年)-723年(養老7年)。従五位下(兼・陰陽頭?)。 觮兄麻呂 ? - ? 「觮」は「角+彔」、別称は「角兄麻呂」・「羽林兄麻呂」。 陰陽博士 701年(大宝元年) - 727年(神亀4年)?。正六位上 721年(養老5年)。 王中文(王仲文) おうちゅうぶん ? - ? 高句麗出身、法名「東楼」。 天文博士 701年(大宝元年) - 720年代(神亀年間)。正六位上 721年(養老5年)。 金財(金宅良) 新羅出身、和名「隆観」、諡「国看連宅良」。 大宝2年 - 神亀元年。 文広麻呂 ふみのいみきひろまろ ? - ? 漢出身。 陰陽師 700年代(慶雲年間)。 池辺大島 ? - ? 漢出身?。 漏刻博士 700年代(慶雲年間)。 山口田主 やまぐちのいみきたぬし ? - ? 漢出身。暦道に長けていたため、算術の大家としても有名で、正六位上 721年(養老5年)、天平2年に、算術啓蒙の師として公式に指名されている。 正六位上 721年(養老5年)。陰陽暦博士 709年(和銅2年) - 730年(天平2年)。 余秦勝 よのやすかつ ? - ? 百済の亡命王族の子孫。 正六位上 721年(養老5年)。 志我閇阿彌陀 しがへのむらじあみだ ? - ? 漢出身。別称「志我閇連阿弥太」。 従五位下 721年(養老5年)- 723年(養老7年)。 楢諸君 漢出身。 陰陽大属 728年(神亀5年)。 余真人 よのまひと ? - ? 百済の亡命王族の子孫。 養老-神亀年間。従五位下 717年。 谷那庚受(難波連庚受) こくなこうじゅ(なにわのむらじこうじゅ) ? - ? 高句麗出身。別称は「谷那康受」。難波連の姓(かばね)を賜る。 難波吉成と同一人物とする説がある。 720年代(神亀年間)。 礒氏法麻呂 『万葉集』に太宰府の梅の花を詠んだ歌が見られる。 太宰陰陽師 730年(天平2年)。 難波吉成(なにわのよしなり) ? - ? 高句麗出身。 730年(天平2年)-731年(天平3年)。 高麦太(こうのむぎた)? - ? 高句麗出身。 陰陽師 737年(天平9年)-740年(天平12年)。兼 陰陽頭738年(天平10年)。 余益人(百済朝臣益人) よのますひと (くだらのあそみますひと) ? - ? 百済の亡命王族の子孫。「百済朝臣」の姓(かばね)を賜る。 太宰陰陽師 758年(天平宝字2年)-764年(天平宝字8年)。 山上船主(やまのうえのふなぬし) ? - ? 延暦年間に陰陽頭を勤めたという記録のほか、782年(延暦元年)には、氷上川継の謀反(氷上川継の乱)に連座して、隠岐介に左遷(実態は流罪)されたとの記録もある(『続日本紀』)。 陰陽頭 兼 天文博士 767年(神護景雲元年)-805年(延暦24年)。 百済秋麻呂 くだらのあきまろ ? - ? 百済の亡命王族の子孫。 陰陽大属 767年(神護景雲元年)。陰陽允 769年(景雲3年)。 国見今虫 くにみのいまむし ? - ? 新羅出身。 天文博士 767年(神護景雲元年)。 大津大浦 おおつのおおうら ? - ? 大津首の孫とされている。大津皇子(おおつのみこ)の壬生(乳部)であったとの説もある。 陰陽頭 771年(宝亀2年)-774年(宝亀5年) 紀本 きのあそみのかみ ? - ? 皇族出身。 陰陽頭? 774年(宝亀5年)-782年(延暦元年)。 栄井蓑麻呂 高句麗出身。別称「日置造蓑麻呂」。 陰陽頭 747年(天平18年)-783年(延暦2年)。 高橋御坂 たかはしのみさか ? - ? 皇族出身。 陰陽頭 785年(延暦4年)。 船田口 百済出身。 陰陽助 781年(天応元年)-784年(延暦3年)。 藤原刷雄 ふじわらのよしお ? - ? 752年(天平勝宝4年)藤原清河遣唐使に留学生として随行、陰陽家というよりも禅定家としての性格が強い。帰国後に従五位下に任じられ、「藤原恵美」朝臣の姓を賜った。764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)に連座して隠岐国に流されたが、772年(宝亀3年)に赦免されて再度従五位下「藤原朝臣」を賜って入京を許され、778年(宝亀9年)に従五位上に叙せられた。 陰陽頭 791年(延暦10年)。 路三野石守 おみぬのいそもり ? - ? 皇族出身とされているが叙せられた官位がおしなべて低目であるため反論も多い。別称「三野真人石守」(みぬのまひといそもり)。 陰陽助 786年(延暦5年)。 藤原菅継 陰陽頭 784年(延暦3年)-791年(延暦10年)
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