奈良時代から平安時代までとは? わかりやすく解説

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奈良時代から平安時代まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 01:26 UTC 版)

日本教育史」の記事における「奈良時代から平安時代まで」の解説

古代日本の教育について、多く知られているとはいえない。しかし、山上憶良の「貧窮問答歌」などにも見られるように、親が子を思い、そのために何かをしてやりたいという気持ち時代違っていても変わることはなかったようで、資料残っている以前から、親や大人たちが子どもや若者一人前になっていく上で、何かの手助け指導をしていたことは想像に難くない施政にあたる人物で、日本史上最も早く教育関心示したといわれるのは、、飛鳥時代政治家聖徳太子574年-622年)である。厩戸うまやど皇子上宮(うえのみや)王・豊聡耳とよとみみ)などともいう。理想主義的な哲人政治志向したが、書物としての教育論残していない。冠位十二階十七条憲法制定遣隋使小野妹子)の派遣四天王寺法隆寺などの建立などが主だった業績である。経典研究し三経義疏」という注釈書書いたが、これに彼の教育思想、「一乗思想」が色濃く反映されている。つまり、すべての人に等しく教育説き理想実現人間平等の考え方である。教育について日本では初め思想として提起されものになる最初教育制度というのは、大宝律令701年)による教育制度確立である。これが、日本最初成文化され教育制度になる。この骨格中国唐の国子監制度から持ちこまれたものである。 その仕組みは、大学寮中央(都)に一つ設けられた。式部省所管で、明経道経書)、算道算術)および副教科音道中国語発音)、書道書き方)の四学科があり後に紀伝道通称文章道」、中国史文章)と明法道法律)が加わった。これらの「明」は、それについて「明るい」(ことの次第によく通じた)という意味である。 その他にも、専門的な技術者養成機関としては典薬寮陰陽寮雅楽寮などがあった。これらでは医、、針、按摩陰陽天文占術、暦、雅楽などを教授した当時学生は、大半大学寮内に寄宿しており、代表的なものとして菅原清公菅原道真祖父)が設立して菅原氏大江氏管理にあったとされる文章院がある。これに対して有力な氏族大学別曹のような特別な寮舎りょうしゃ)を設けて一族師弟をそこに収容した。これらは独立性持ち寄宿舎で、同時に研究所的な性格持っていた。和気氏弘文院藤原氏勧学院橘氏学館院王氏奨学院など。大学寮という公的機関を巡る氏族対立副産物のような存在で、貴族政治台頭背景としていた。また、菅原氏などの学者公務以外に私邸などを使って門人教育するなど、私立学校萌芽のようなものもこの時代から現れるうになる。 だが、平安時代後期から官司請負制のもとで官職世襲化が進み大学寮教官特定の氏族世襲となって教官たち世襲存続のために自己の子弟一族限られた門人に対してのみ限定して大学寮外の自宅などで教授するという家学化が進んだ。更に1177年大火大学寮文章院焼失すると、再建されることなく放置され公的教育機関として大学寮消滅することになる。

※この「奈良時代から平安時代まで」の解説は、「日本教育史」の解説の一部です。
「奈良時代から平安時代まで」を含む「日本教育史」の記事については、「日本教育史」の概要を参照ください。

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