奈良時代から戦国時代にかけて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 21:52 UTC 版)
「淀川」の記事における「奈良時代から戦国時代にかけて」の解説
奈良時代の僧侶行基は、琵琶湖周辺の浸水被害を防ぐためにはより多くの湖水を唯一の流出河川である瀬田川に流す必要があると考え、瀬田川沿いにある小さな山を掘削することを試みた。この山が川に大きく張り出しているために瀬田川の川幅が急に狭くなる箇所があり、上流が豪雨に見舞われると水を堰き止めて上流に洪水をもたらすことが頻繁に起こっていたためである。結局、行基は山を掘削することで下流が氾濫することを恐れて計画を断念。さらに山を削ることを諫めるために大日如来を祀り、「山に手をつけると祟りが起こる」との言い伝えを残した。2017年現在「大日山」と呼ばれているこの山は、1901年に「明治29年琵琶湖洪水水害」を契機とする淀川水系治水工事で切り取られ、瀬田川の流れは増大した。 平安時代末期の白河法皇は、意のままにならぬ「天下三不如意」として比叡山延暦寺の僧兵、双六博打の賽の目と並んで、淀川上流である鴨川の治水を挙げた。 戦国時代に全国を統一した豊臣秀吉が晩年、伏見に居を移すに当たり、宇治川(巨椋池)の改修を行った。その主なものは、槇島堤を築くことで京都盆地南部に流れ込む宇治川の流れを巨椋池に直接流れ込む形から、現在のような伏見への流れに変えたことである。このことにより宇治川は桃山丘陵に築かれた伏見城の外濠の役目を担うことになるとともに、水位が上がったことにより伏見城下に港を開くことを可能にした。また淀堤(文禄堤)を伏見・淀間の宇治川右岸に築き、流れを安定させた。これにより、伏見は交通の要衝として栄えることになった。
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