遣隋使とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 労働 > 役職 > 使節 > 遣隋使の意味・解説 

けんずい‐し【遣×隋使】


遣隋使

読み方:ケンズイシ(kenzuishi)

日本が隋に派遣した外交使節


遣隋使

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/06 16:05 UTC 版)

遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の時代に倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために派遣した朝貢使の事を言う。600年(推古8年) - 618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されている。608年の遣隋使で天皇という君主号が使われたと『日本書紀』は記すが、懐疑的な意見もある。なお、日本の国号が中国に対して使用されたのは702年遣唐使からである。

大阪住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出、難波津を経て瀬戸内海筑紫(九州)那大津へ向かい、そこから玄界灘に出る。

倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での新羅との関係を有利にするという、影響力維持の意図もあった。

ただし、倭の五王時代とは異なり、冊封を受けない(したがって臣下ではない)外交原則とした。これは次の遣唐使の派遣にも引き継がれた[1]

第一回(600年)

この派遣第一回 開皇20年(600年)は、『日本書紀』に記載はないが、東アジア諸国では末尾の遣使だった[2]。『隋書』「東夷傳俀國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。

「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥(おおきみ、あめきみ)と号(ごう)し、使いを遣わして闕(みかど)に詣(まい)らしむ。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時に、出でて政(まつりごと)を聴くに跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて、我が弟に委(ゆだ)ぬと云う。高祖曰く、此れ太(はなはだ)義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。[3]

開皇二十年に、大王(おおきみ)又は天王(あめきみ)と号する倭王アメノタラシヒコは、使者を遣わして帝に詣らせた。高祖が役人を通じて倭国の風俗を尋ねさせたところ、使者は「倭王は、天が兄であり、日が弟です。まだ天が明けない時に出て、跏趺して坐りながら、政(まつりごと)を聴きます。日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねます。」と答えた。高祖は「それは甚だ不合理(あるいは不義理)であるから改めるよう」訓令した。

俀王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、より垂下した(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミ又はアメキミで、大王又は天王とされる。『新唐書』では、用明天皇(在位585年-587年)が多利思比孤であるとしているが合わない[4]。開皇20年は、推古天皇8年にあたる。この大王が誰かについては、推古天皇厩戸王蘇我馬子など意見が分かれている[5]

この時派遣された使者に対し、高祖は所司(役人)を通じて俀國の風俗を尋ねさせた。使者は俀王を「姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雞彌」で、「天をもって兄とし、日をもって弟とする。いまだ夜が明ける前に出て跏趺して政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねる」と述べている。ところが高祖から見ると、俀國の政治のあり方が道理に外れたものだと納得できず、改めるよう訓令したというのである。

これが国辱的な出来事だとして、日本書紀から隋使の事実そのものが除外されたという。だが、その後603年(推古11年)冠位十二階や、604年十七条憲法の制定など隋風の政治改革が行われ、603年小墾田宮も外交使節の歓待を意識して新造されて、次の遣隋使派遣がされる[5]

第二回(607年)

第二回は『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている。

日本の王から隋帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々)と書き出されていたとある(『日本書紀』は載せていない)。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼有らば、復た以て聞する勿かれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという[6]

なお煬帝が立腹したのは、天子は中華思想では1人なのに辺境の地の首長が「天子」を名乗ったことと、隋の皇帝が代わっていたことを知らなかったことに対してであり、「日出処」「日没処」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である[7][8]。冒頭に、「海の西の菩薩天子が仏教を興隆させているので学ばせてほしい」と国書を提出していて、仏教を崇拝し菩薩戒を受けた文帝への仏教重視での対等の扱いを目指した表現で、後を継いだ煬帝相手のものではなかった[9]

小野妹子(中国名は蘇因高[10])は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の勅使として裴世清が派遣されるという厚遇で一緒に帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している[11]。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている。

裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』にある(『隋書』は倭王に会った時と帰国する前の裴清の言葉を記すが国書を載せていない)。

「皇帝、倭皇に問う。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れて、よく意を伝えてくれた。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したいというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。時節は漸く暖かで朕は無事である。鴻臚寺の掌客裴世清らを遣わして送使の意をのべ、併せて別にあるような贈り物をお届けする。」

「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』

これは皇帝が蕃夷の首長に対し下す形式の国書であった。倭皇は正しくは「倭王」で、後の『日本書紀』編纂での改竄とする見解が多いが、『魏志』や『宋書』と異なり前代未聞の無礼を受けての返書である。煬帝が「皇」を与えたと記しているのを皇国史観に基づく改竄と見るのも不合理であり、倭王の無礼と無知への痛烈な皮肉とも見られる。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しは「東の天皇が敬(つつし)みて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とあり、裴世清の書に従って相手を「皇帝」と改め、自分は「倭皇」の「皇」だけを取り入れて「天皇」と改めた。前回とは違う身分が上の貴人に差し出すへりくだった形式となっていて外交姿勢を改めたことになる[12]。「東天皇」は後の編纂時に改定されたもので「大王」か「天王」だったという説と、そのまま天皇号の始まりとする両説がある[13]。『日本書紀』の古訓では「倭皇」「東天皇」をどちらも「やまとのすめらみこと」と読んでいる[注釈 1]

なお裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、聖徳太子推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される[14]。他の解釈としては、返書紛失事件は翌609年に起きたもので年次の誤りとも考えられる。「東の天皇」は倭国側としては譲歩であっても隋から見れば「日出づる処の天子」と大同小異と見られ、返書を貰えなかった妹子が紛失と偽ることは有り得る。

だが、姿勢に変化はあるものの、冊封は受けないとする倭国側の姿勢は貫かれた。隋は高句麗との緊張関係の中、冊封を巡る朝鮮三国への厳しい態度と違い、高句麗の背後に位置する倭国を重視して、冊封なき朝貢を受忍したと思われる[15]

第三回(608年)以降

裴世清を送って小野妹子が再度派遣された。この時は多くの留学生を引き連れ、その中に高向玄理南淵請安僧旻倭漢福因恵隠らがいた。彼らは隋の滅亡と建国を体験し、帰国後に7世紀後半の倭国の改革に貢献する[16]。614年、最後の遣隋使が派遣される。

612年から614年にかけて隋は高句麗に出兵するが、1回目で大敗し、戦費兵役負担から、次の2回にわたる遠征の最中に隋国内で反乱が起こり、618年に煬帝は殺害され隋は滅亡し唐が成立した[17]

年表

  • 600年(推古8年)第1回遣隋使派遣。この頃まだ俀國は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。(『隋書』俀國伝)
  • 607年(推古15年) - 608年(推古16年)第2回遣隋使、小野妹子・通訳鞍作福利を遣わす。「日出処の天子……」の国書を持参した。小野妹子、裴世清らとともに住吉津に着き、帰国する。妹子は返書の紛失を奏上。世清は「皇帝問倭皇……」の国書を提出。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
  • 608年(推古16年) - ? (『隋書』煬帝紀)
  • 608年(推古16年) - 609年(推古17年)第3回遣隋使、小野妹子・吉士雄成・鞍作福利を隋に遣わす。『日本書紀』によると「東の天皇……」の国書を持参。この時、学生として倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)・学問僧として僧南淵請安志賀漢人慧隠(しがのあやひとえおん)ら8人、隋へ留学する。隋使裴世清帰国する。鞍作福利は帰国しなかった。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
  • 610年(推古18年) - ? 第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)他に記録がなく、第3回の年次誤りとする説が多い。
  • 614年(推古22年) - 615年(推古23年)第5回(又は第4回)遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。百済使、犬上御田鍬に従って来る。(『日本書紀』)隋側に記録がなく、隋の混乱で成果なく帰国か。
  • 618年(推古26年)隋滅ぶ。高句麗が隋の捕虜二人、駱駝一匹などを献上する。(『日本書紀』)

遣使の『日本書紀』と『隋書』の主な違い

  • 第一回遣隋使は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ。
  • ここでは中国史に合わせて遣隋使として紹介しているが、『日本書紀』では「隋」ではなく「大唐國」に遣使したとあり、高句麗が隋の捕虜を献上した記事にだけ、使者の発言中に「隋」「煬帝」の名前が出ている[注釈 2]
  • 『日本書紀』では裴世清、『隋書』では編纂された時期が太宗の時期であったので、太宗の・世民を避諱して裴清となっている。役職も『日本書紀』では鴻臚寺の掌客、『隋書』は文林郎とする。
  • 小野妹子の返書紛失事件は『日本書紀』にはあるが『隋書』にはない(『隋書』には小野妹子の名前も、中国名とされる蘇因高も出てこない)。
  • 『隋書』では竹斯國と秦王國の国名が出てくるが大和の国に当たる国名は記されていない。しかし、「都於邪靡堆」とあることから、都は「邪靡堆」にあったと推察される。
  • 『日本書紀』では推古天皇の時代であるが、『隋書』では倭王が女性であることを思わせる記述は全く無い[注釈 3][18]

脚注

注釈

  1. ^ 『日本書紀』神代上と仲哀天皇紀では「白銅鏡」を「ますみのかがみ」と読んでおり、「皇」を「白」と「王」に分ければ「すめるみこ」とも読める。穴穂部皇子の別名「すめいろど」から少なくとも「すめ」はより古いと見られる。
  2. ^ 『日本書紀』は雄略天皇による宋(南朝)への遣使も「国(くれのくに)」への遣使と記しており、神功皇后紀における『魏志』・『起居注』の引用と推古天皇紀における高句麗人の発言を除き、中国大陸の王朝名を正しく記していない。斉明天皇5年(659年)条に引用された『伊吉博徳の書』には「呉唐之路(くれもろこしのみち)」という表現があり、王朝とは無関係に中国の北部を「唐(もろこし)」、南部を「呉(くれ)」と表記したと推測される。
  3. ^ 森浩一箸墓古墳こそがヤマトに古くからある「始祖王」の古墳であり、壬申の乱以前は「箸陵」と呼ばれていたが、高句麗僧・恵慈が日本に新たな「始祖王の墓」の必要を説き、東明王陵に倣って神武天皇陵を造らせた可能性を指摘している。箸陵がなぜ駄目だったかを森は説明していないが「女の墓」という伝承との関連を示唆している。女帝が隠されたことも同様に理解される。

出典

  1. ^ 石井正敏他(編) 2011, pp. 56–57、古瀬奈津子「隋唐と日本外交」
  2. ^ 石井正敏他(編) 2011, p. 34、森公章「朝鮮三国の動乱と倭国」
  3. ^ 石井正敏他(編) 2011, p. 173、榎本淳一「比較儀礼論」
  4. ^ 新唐書』東夷伝日本伝「用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」
  5. ^ a b 石井正敏他(編) 2011, pp. 173–174、榎本淳一「比較儀礼論」
  6. ^ 「帝覽之不悅 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」
  7. ^ 東野治之『遣唐使』(岩波新書 2007年)p.25
  8. ^ 東野治之「ヤマトから日本へ―古代国家の成立」『日本書紀成立1300年 特別展 出雲と大和』(東京国立博物館、2020年)p.49
  9. ^ 大津透 2017, p. 241.
  10. ^ 川本芳昭「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」(『史淵』141号、2004年)p56
  11. ^ 「臣參還之時 唐帝以書授臣 然經過百濟國之日 百濟人探以掠取 是以不得上」『日本書紀』
  12. ^ 大津透 2017, pp. 241–242.
  13. ^ 大津透 2017, p. 242.
  14. ^ 「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」(川本芳昭,九州大学 史淵 141, 53-77, 2004-03-10)
  15. ^ 石井正敏他(編) 2011, p. 57、古瀬奈津子「隋唐と日本外交」
  16. ^ 石井正敏他(編) 2011, p. 35、森公章「朝鮮三国の動乱と倭国」
  17. ^ 石井正敏他(編) 2011, pp. 32–33、森公章「朝鮮三国の動乱と倭国」
  18. ^ 森浩一編『日本の古代5 前方後円墳の世紀』中公文庫 ISBN 9784122025455 p.260, 306, 317

参考文献

  • 川本芳昭「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」(『史淵』141号、2004年)
  • 石井正敏、村井章介荒野泰典(編集) 編『律令国家と東アジア』吉川弘文館〈日本の対外関係 2〉、2011年5月。ISBN 978-4-642-01702-2 
  • 大津透『神話から歴史へ』講談社〈天皇の歴史 01〉。 

関連項目

外部リンク


遣隋使

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 01:36 UTC 版)

推古天皇」の記事における「遣隋使」の解説

このように公正な女帝治世のもと聖徳太子はその才能十分に発揮し冠位十二階推古天皇11年603年))・十七条憲法推古天皇12年604年))を次々制定して、法令組織整備進めた推古天皇15年607年)、小野妹子を隋に派遣した中国皇帝から政権正統性付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節派遣されていたが、初め日本独立強調する目的使節派遣された。翌年からは入隋の使節学問生・学問僧を同行させた。また、推古天皇2年594年)に出された、三宝仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝太子馬子と共に仏法興隆にも努め斑鳩法隆寺建立させたりした。 推古天皇15年607年)には、壬生部定め、「昔、我が皇祖天皇等、世を宰めたまふこと、敦く神祇を礼びたまふ。(中略)今朕が世に当りて、神祇祭り祀ること、豈怠ること有らむや。故、群臣、共に心を尽くして神祇を拝るべし」と詔を出して神道祭祀重んじる旨を示した推古天皇28年620年)、聖徳太子馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上したが、2年後推古天皇30年2月22日622年4月8日)に太子49歳薨去し、更に4年後の同34年5月20日626年6月19日)、蘇我馬子亡くなった推古天皇36年3月7日628年4月15日)、75歳小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝敏達天皇嫡孫田村皇子(のちの舒明天皇)を枕元呼び、謹しんで物事明察するように諭し、さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名避けたようである。

※この「遣隋使」の解説は、「推古天皇」の解説の一部です。
「遣隋使」を含む「推古天皇」の記事については、「推古天皇」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「遣隋使」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「遣隋使」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



遣隋使と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「遣隋使」の関連用語

遣隋使のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



遣隋使のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの遣隋使 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの推古天皇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS