遣隋使の上表文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/08 13:31 UTC 版)
第1回遣隋使は、600年(推古8)に派遣された。『隋書』にみえるが、『日本書紀』には記載はない。因みに、『隋書』の著者は、魏徴(?- 貞観17年(643))である。 「開皇20年、俀王あり、姓は阿毎(アメ)、字(あざな)は多利思比孤(タラシヒコ)、阿輩雞彌と号す。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。(中略)王の妻は雞彌と号す。(中略)太子を名づけて利歌弥多弗利と為す(『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」) 文帝の開皇20年(600年)は、推古8年である。阿毎多利思北孤は天を兄とし、日を弟とし、その名は天より垂下した尊貴な男子という意味で、天孫降臨を思わせる。「阿輩雞彌」はオオキミの音を写したものと見られている。そうすると6世紀末の時点で俀王は国内で「大王(オオキミ)」と称されていたことが分かる。 第2回目遣隋使として、阿毎多利思北孤が、隋の皇帝煬帝に奉った有名な国書(上表文)は次の通りである。 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無き(つつがなき)や(『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」) これを見た煬帝は、立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」と命じたという。 これに対して、煬帝が倭王に宛てた国書は、『日本書紀』によれば小野妹子が紛失したという。 第三回遣隋使は608年(推古天皇16年)に、隋の皇帝あての国書を持たせ、また、小野妹子を大使に、難波吉士雄成を小使に、鞍作福利を通事(つうじ)に任命し、裴世清一行と留学生8人を渡航させた。 その時もたせた国書の文面が『日本書紀』推古天皇16年9月の条に載っている。 「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す。使人鴻臚寺の掌客裴世清等至りて、久しき億(おも)ひ、方に解けぬ。季秋やうやくに冷し。尊(かしこどころ)、如何に。想うに清悆ならむ。此は即ち常の如し。いま大礼蘇因高・大礼乎那利等を遣して往でしむ。謹みて白す。具(つぶさ)ならず。」 この国書には、さすがに前回のような「天子」や「書を致す」などの字句や表現を用いていない。しかし、「倭王」と書かないで「天皇」号を用いている。これが事実であれば倭国の外交文書上、はじめて天皇号を用いられたことになる。
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