『隋書』
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桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。 189年前後か? - 卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は王に共立した。
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『隋書』
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「倭・倭人関連の中国文献」の記事における「『隋書』」の解説
ウィキソースに隋書倭国伝の原文があります。 隋書の「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記載があるが、倭国ではなく俀国と書かれている。 「男女多黥臂點面文身 没水捕魚」 男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)し顔に点し身に文し、水に没して魚を捕る とある。『魏志倭人伝』記事の焼き直しでなく、608年の隋使裴清(裴世清)の一行の見聞や観察を基礎にしたものであれば、7世紀初頭の倭人社会についての資料となる。また、 「新羅 百濟皆以俀爲大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來」新羅・百濟は、みな俀を以て大国にして珍(寳)物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す とあり、新羅と百済が、共に、大国にして宝物の多い俀を尊敬し、常に使いを通わせていたとの記述と思われる。 「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」開皇二十年(600年)、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥(おおきみ)と号(ごう)し、使いを遣わして闕(みかど)に詣(まい)らしむ。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時に、出でて政(まつりごと)を聴くに跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて、我が弟に委(ゆだ)ぬと云う。高祖曰く、此れ太(はなはだ)義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。 この遣隋使の記録は日本側には無い。 「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法」大業三年(607年)其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ。』と。 俀の王からの使者が来て、隋を訪問した目的を述べたことが記述されている。ここでは「海西の天子は、重ねて(熱心に)仏法を起こしていると聞いた。そのため沙門(僧侶)を送って仏法を学ぶために来たのだ」と述べている。 海西の菩薩天子とは、海の西の方の天子、すなわち、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を指している。そして、この一節の直後に有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の記述が続いている。 「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近」古くは云う、楽浪郡境及び帯方郡を去ること、並びて一万二千里。会稽の東に在りて、儋耳と相近しと。 当時の隋の古伝によれば、倭人のルーツは、楽浪郡や帯方郡から1万2000里(約4800m)離れた会稽の東側にあり、儋耳と近かったという。
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