日出處天子
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大業3年(607年)の国書に「聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とあり、仏教を学ぶための使者の国書が有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」であり、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を怒らせた(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)。「日出處」「日沒處」は当時の仏典(『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』など)に「日出処是東方 日没処是西方」とあり東西の方角を表す表現でもある。 ここで、隋書には過去の倭が授かっていた、朝鮮半島の将軍や倭国王への任命や称号を日本側から求めたり、隋も印綬を多利思比孤へ支給する記述が出現しない。このことから単なる方角を表す表現と断定はできない。
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