冊封体制の全盛とは? わかりやすく解説

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冊封体制の全盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 06:22 UTC 版)

冊封」の記事における「冊封体制の全盛」の解説

二元的な冊封体制は、589年中国統一した隋によって一元的なものへ纏められた。 高句麗百済は隋成立581年すぐに隋の冊封受けたが、新羅はすぐには冊封受けず594年になって初めて隋の冊封を受ける。一方高句麗585年からは隋と対立するに対して朝貢するようになり、隋が陳を滅ぼした後も隋に対す朝貢怠りさらには領内侵入する事件まで起きる。 これに激怒した文帝高句麗対す遠征軍起こす。この軍は苦戦し撤退余儀なくされるが、高句麗謝罪したことで高句麗の罪を赦した。しかし高句麗はなお朝貢怠り文帝に代わって煬帝立った後の607年には突厥結んで、隋に対抗する姿勢見せた煬帝はこれに対して二百万と号する遠征軍隋の高句麗遠征)を起こすが、三度とも失敗終わり、隋滅亡の主要因となった他方中国王朝との接触行っていなかった倭国は、隋に対して遣隋使を送るようになるこの際煬帝に対して日出處天子致書日沒天子無恙云云」(『隋書』八十一 列第四十六 東夷 俀國)で始まる国書送ったことが知られているが、これは、当時台頭し始めた俀國なりの大国意識に基づく、冊封体制への忌避感の表明見られている。また、唐使の高表仁倭国王中国史書のうち『旧唐書』舒明天皇5年1月26日633年)「與王子爭禮 不宣朝命而還」とし王子とする)と礼を争い帰国するなどした。ただしこの時期倭国もまた東アジア世界一員であり、「冊封体制外部にあったとしても、主に政治制度確立という点で中国王朝からの影響大きかった。 隋が滅び、唐が成立すると、624年朝鮮三国は唐の冊封受けた。しかし高句麗淵蓋蘇文による権力奪取起きるとこれを理由として2代太宗高句麗遠征唐の高句麗出兵)を開始するが、この遠征は再び失敗に終わる。 その過程で唐と新羅との関係密になり(唐・新羅の同盟)、660年、唐は百済戦争中新羅からの救援要請に応じて兵を送り百済滅ぼしたその後連合維持され668年には高句麗滅ぼした。更に百済遺民要請受けて出兵した倭との白村江の戦いにも勝利する。 しかし新羅二国旧領が唐の郡県支配置かれることを不快に思い、これに攻撃唐・新羅戦争)を仕掛けて朝鮮半島統一する至った。唐は当然これに怒り新羅王号剥奪し討伐軍を送るが失敗終わり最終的に新羅謝罪して入朝するという形式をとることで和解し拡大した支配領域維持したまま再び新羅冊封を受ける。以後新羅と唐は冊封体制中でも最も強固な関係となる。 一方高句麗遺民たちは北に逃れ震国建国した。唐は初めこれに対して討伐軍を送ったものの713年には王の大祚栄渤海郡王に冊封する。震国はこれにより渤海呼ばれるようになり、唐の冊封体制入った。 また白村江の戦い敗れた倭国では、大宝2年702年第8次以降遣唐使により唐との関係修復試み、これを朝貢形式行っているが冊封を受けることはなかった。 唐の隆盛とともに冊封体制安定期迎え冊封体制通じて各国唐文化伝えられた。各国では唐の制度模した律令制が採り入れられた。

※この「冊封体制の全盛」の解説は、「冊封」の解説の一部です。
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