冊封体制からの離脱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:14 UTC 版)
朝鮮国王高宗は1895年(明治28年)に三浦梧楼らによって閔妃が暗殺された乙未事変の影響で、1896年(明治29年)2月11日から1897年(明治30年)2月20日までロシア公使館に逃れていた(露館播遷)が慶運宮へ戻った。1897年(明治30年)にもはや清の藩属国でなくなった以上、国王号を使用することは望ましくないという儒者の建言に従い以下の改革が実施された。 国号を「朝鮮」から「大韓」と改めた。 元号を前年のグレゴリオ暦への改暦にともなって定めた「建陽」から「光武」に改元した。 高宗は、圜丘壇を新たに設けて10月12日に祭天の儀式を行い、翌13日に詔を出して皇帝に即位した。大韓帝国の皇帝位は明朝の皇統を継承したことにより得たものとされた。 清の冊封の象徴であった迎恩門や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒して独立門を立て独立を記念した。 高宗以前の朝鮮王朝の歴代君主にも皇帝としての諡号が追贈(追尊)された。
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