冊封の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「冊封の準備」の解説
薩摩侵攻以降、琉球に冊封使を迎える琉球当局は、民間に対して様々な統制を行った。これは前述の琉日関係の隠蔽とともに、薩摩側に清との関係の深さを見せつけて、琉球は清の属国でもあることを認識してもらう必要性があったためである。そのためにも清に琉球が忠実な冊封国であることを示すことが重要であった。つまり冊封使滞在中は日本に関係した事物の隠蔽が図られ、冊封使の目に日本色が無い、中国風の文化、慣習下にある琉球の姿が映るように演出がなされた。 まず薩摩藩の在番奉行ら役人や商人たちは、冊封使の滞在中は首里や那覇から離れ、浦添間切の城間村に滞在するようにした。琉球当局は冊封使一行を城間村に近づけないように努力し、もし城間村のことについて尋ねられたら、年貢を納めに来た奄美諸島の責任者の宿がある等の説明をすることになっていた。その一方で薩摩藩関係者の滞在場所は首里、那覇から比較的近く、琉球と清との接触の情景を垣間見ることが出来た。つまり琉球としては薩摩側には琉球と清との親密な関係をアピールすることができた。 記録が残っている1866年の尚泰の冊封時の場合、冊封使を迎えるに当たって「冠船惣横目方」という臨時の役職が設けられた。この「冠船惣横目方」のもとで様々な施策、取り締まりが実行された。まず冊封使の到着前年、「冠船惣横目方」は47条に渡る「冠船付締方申渡条々」という統制令を公布する。「冠船付締方申渡条々」ではまず、誰もが礼儀作法を守り、守礼之国との名を汚さぬよう求めた。そしてまず正しい中国文化が行き届いている印として、皇帝が着用する黄色の衣服の禁止など、中国文化、習慣の徹底。言葉、衣服、書物等、日本風の風俗、物品の禁止。そして冊封使一行が持ち込む中国産品の評価貿易に関する禁令などが定められていた。この統制令に違反した場合、罰金や入牢等の罰則が科せられた。 これらの禁令を守らせるために当局は冊封使到着前年から見回りを開始した。「冠船惣横目方」は、冊封儀式の主役である冊封使や国王の警備も担当していた。警備には大勢の人員を要すため、他の部署や地方から応援を要請していた。また冊封使帰国後に中国人が琉球に居残らないよう、調査、監視する役割も担っていた。琉球は清や諸外国に対して琉球には遊女はいないと伝えていたため、冊封使滞在中は遊女を移住させ、移住先でも商売を行わないよう取り締まった。また遊女を移住させた関係上、冊封使一行の犯罪が多発することを懸念して、一般女性の行動や衣服に禁令を出した。 また冊封使一行が持ち込む中国産品の評価貿易に関しては、基本的に民間人が冊封使一行との商取引を行うことを禁じた。そして中国側に高い値段で中国産品を売りつけられることを警戒し、取引価格の情報が漏れないように情報統制を行った。しかし冊封使一行が身の回りの生活用品や食料などを全く購入出来ないというのはさすがに現実的ではなかった。そのため上層部やその従者には琉球側が必要な物品を用意し、それ以外は市場で物品の購入が可能となった。
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