尚泰の冊封問題とは? わかりやすく解説

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尚泰の冊封問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)

琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「尚泰の冊封問題」の解説

東アジア伝統的秩序動揺影響をもろに被る形となったのが、1848年王位継承した尚泰冊封であった。父、尚育没後、わずか数え6歳王位継承した尚泰は、そもそも元服前に冊封行い得ない事情もあって、通常よりも冊封遅れてしまうこと自体やむを得ないことであった冊封遅れた当初原因尚泰元服前の幼少の身で王位継承したことである。従って元服日程具体的になればおのずと清側に請封を行うスケジュール固まっていく。実際尚泰場合1850年代に入ると冊封の準備始まりスケジュール的にも1856年に請封、1857年元服、そして1858年冊封という予定固まった。 しかし尚泰冊封予定通りには進まなかった。請封を翌年控えた1855年9月琉球王府予定通り行えかどうか検討した。まず問題となったのが太平天国の乱大混乱渦中にあった清の情勢であった上述のように1850年代進貢使が北京赴くのもやっとという状態であった。この状況で請封を行えば冊封使琉球出向く頒封ではなく清の国内冊封詔書手渡される領封になってしまうことを恐れたもう一つ琉球国内にはイギリス人フランス人滞在していた。この状態のまま冊封使琉球まで来てもらうのもどうなのかという問題もあった。結局、請封は清の情勢安定化を待つこととし落ち着き取り戻せば清の威光異国人たちも退散するであろうとの意見通り1856年の請封はひとまず延期となった1856年には改めて請封のスケジュールについて検討が行われた。前年に請封延期決定した直後1855年10月には琉仏修好条約締結されており、フランス人琉球滞在固定化し、少なくともフランス人滞在問題に関して短期間での解決望み得ない情勢になったこともあり、琉球王府はいったん延期決めた1856年の請封を行うかどうか含めた検討行った結局、この検討時には琉仏修好条約締結問題に関して派遣内定していた特命使の派遣結果を待つべきとの結論になり、1858年の請封、冊封1860年というスケジュール了承される。 ところが清の情勢琉球情勢も更に悪化する。まず清はアロー戦争によって混乱がより激化していた。そして琉球側は予定していた特命使の派遣中止され続いて島津斉彬による本格的な貿易開始計画とそれに伴う王府内への人事介入起こり内政混乱していた。1858年には再び請封を延期すべきかどうか琉球王府内で検討なされた王府内の意見割れたものの、結局は領封が採用される恐れとあとは琉球国内の混乱考慮し同年の請封は延期となった1858年に請封の延期決定した後、しばらく請封そして冊封日程決定先延ばしにされていた。その間島津斉彬急死後の政策転換琉球王府混乱等、琉球王府そして国王尚泰権威失墜する事態起きていた。王府国王求心力回復させるために冊封早期実現すべきとの意見高まり1860年に請封、そして冊封スケジュール検討が行われた。琉球王府内にはすぐにでも請封を行い1862年冊封を行うべきとの意見出されるなど、早期実現派が多数であった慎重論も根強かった。しかし1860年清国内の情勢最悪であったアロー戦争イギリス軍フランス軍北京占領し咸豊帝北京から逃亡していたのである実際問題1860年進貢使は北京へ行くことが叶わなかった。検討結果早期実現派が多数であるが慎重派存在考慮し、更に流動的な中国情勢にも勘案して1862年の請封、1864年冊封内定するものの、清の情勢を更に見極めたうえで最終決定することになった結局1862年の請封、1864年冊封スケジュール延期余儀なくされた。前述のように1860年続いて1862年進貢使も北京行き断念させられていて、1863年派遣され同治帝即位慶賀使国内混乱理由に約半年福州滞在余儀なくされるなど、1860年内定したスケジュール実現不可能になってしまっていた。しかし琉球側としても王府国王求心力回復焦眉の急であった1864年進貢使に請封使を兼任させ、請封に踏み切ったのである1864年進貢使は例年通り10月福州到着し、早速請封使として冊封交渉開始した。しかしなかなか冊封決定下りない。琉球側から再三回答求めた結果翌年6月になって1866年冊封が行われる決定届き至急琉球本国伝えられた。そして1866年には即位18年にしてようやく尚泰冊封される。 1840年代以降琉球冊封を巡る様々な危機は、清を中心としたこれまでの国家間関係が崩壊しつつあったことを示している。その最大要因欧米諸国本格的なアジア進出であり、清、日本そして琉球などアジア諸国否応なしに西欧条約システム組み込まれていった。しかし条約システム組み込まれていきながらも、清と琉球従前国家間関係を堅持していこうとした。琉球側としては欧米諸国からの外圧島津斉彬による琉球王府人事対す露骨な介入対抗するためには、従来枠組みに頼らざるを得ず、そして島津斉彬急死後の政策転換とそれに伴う王府内の深刻な内部対立結果王府王権権威低下招いており、権威回復のためには冊封実現不可欠であった一方清にとっても自らの権威保持中国周辺国家間結ばれていた伝統的秩序の維持注力せねばならなかった。 尚泰冊封については薩摩藩江戸幕府異議を唱えることは無く琉球と清との従来の関係は一応存続保証された形になった。しかし冊封明治維新2年前であり、日本急速に国力増強していく中で清との関係危機瀕していく。

※この「尚泰の冊封問題」の解説は、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の解説の一部です。
「尚泰の冊封問題」を含む「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事については、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の概要を参照ください。

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