尚泰の冊封問題
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「尚泰の冊封問題」の解説
東アジアの伝統的秩序の動揺の影響をもろに被る形となったのが、1848年に王位を継承した尚泰の冊封であった。父、尚育の没後、わずか数え6歳で王位を継承した尚泰は、そもそも元服前に冊封を行い得ない事情もあって、通常よりも冊封が遅れてしまうこと自体はやむを得ないことであった。 冊封が遅れた当初の原因は尚泰が元服前の幼少の身で王位を継承したことである。従って元服の日程が具体的になればおのずと清側に請封を行うスケジュールも固まっていく。実際、尚泰の場合も1850年代に入ると冊封の準備が始まり、スケジュール的にも1856年に請封、1857年に元服、そして1858年冊封という予定が固まった。 しかし尚泰の冊封は予定通りには進まなかった。請封を翌年に控えた1855年9月、琉球王府は予定通り行えるかどうかを検討した。まず問題となったのが太平天国の乱で大混乱の渦中にあった清の情勢であった。上述のように1850年代は進貢使が北京へ赴くのもやっとという状態であった。この状況で請封を行えば、冊封使が琉球に出向く頒封ではなく清の国内で冊封詔書を手渡される領封になってしまうことを恐れた。もう一つ、琉球国内にはイギリス人やフランス人が滞在していた。この状態のまま冊封使に琉球まで来てもらうのもどうなのかという問題もあった。結局、請封は清の情勢の安定化を待つこととし、落ち着きを取り戻せば清の威光で異国人たちも退散するであろうとの意見が通り、1856年の請封はひとまず延期となった。 1856年には改めて請封のスケジュールについて検討が行われた。前年に請封延期を決定した直後の1855年10月には琉仏修好条約が締結されており、フランス人の琉球滞在が固定化し、少なくともフランス人の滞在問題に関しては短期間での解決は望み得ない情勢になったこともあり、琉球王府はいったん延期と決めた1856年の請封を行うかどうかを含めた検討を行った。結局、この検討時には琉仏修好条約の締結問題に関して、派遣が内定していた特命使の派遣結果を待つべきとの結論になり、1858年の請封、冊封は1860年というスケジュールが了承される。 ところが清の情勢も琉球の情勢も更に悪化する。まず清はアロー戦争によって混乱がより激化していた。そして琉球側は予定していた特命使の派遣は中止され、続いて島津斉彬による本格的な貿易開始計画とそれに伴う王府内への人事介入が起こり、内政は混乱していた。1858年には再び請封を延期すべきかどうか琉球王府内で検討がなされた。王府内の意見は割れたものの、結局は領封が採用される恐れとあとは琉球国内の混乱を考慮し、同年の請封は延期となった。 1858年に請封の延期が決定した後、しばらく請封そして冊封の日程決定は先延ばしにされていた。その間、島津斉彬の急死後の政策転換と琉球王府の混乱等、琉球王府そして国王尚泰の権威が失墜する事態が起きていた。王府と国王に求心力を回復させるために冊封は早期に実現すべきとの意見が高まり、1860年に請封、そして冊封のスケジュール検討が行われた。琉球王府内にはすぐにでも請封を行い、1862年に冊封を行うべきとの意見も出されるなど、早期実現派が多数であったが慎重論も根強かった。しかし1860年は清国内の情勢は最悪であった。アロー戦争でイギリス軍、フランス軍が北京を占領し、咸豊帝は北京から逃亡していたのである。実際問題1860年の進貢使は北京へ行くことが叶わなかった。検討の結果、早期実現派が多数であるが慎重派の存在も考慮し、更に流動的な中国情勢にも勘案して、1862年の請封、1864年冊封と内定するものの、清の情勢を更に見極めたうえで最終決定することになった。 結局、1862年の請封、1864年冊封のスケジュールも延期を余儀なくされた。前述のように1860年に続いて1862年の進貢使も北京行きを断念させられていて、1863年に派遣された同治帝即位の慶賀使も国内混乱を理由に約半年も福州に滞在を余儀なくされるなど、1860年に内定したスケジュールは実現不可能になってしまっていた。しかし琉球側としても王府と国王の求心力回復は焦眉の急であった。1864年の進貢使に請封使を兼任させ、請封に踏み切ったのである。 1864年の進貢使は例年通り10月に福州に到着し、早速請封使として冊封の交渉を開始した。しかしなかなか冊封の決定が下りない。琉球側から再三回答を求めた結果、翌年の6月になって1866年に冊封が行われる決定が届き、至急琉球本国に伝えられた。そして1866年には即位後18年にしてようやく尚泰は冊封される。 1840年代以降の琉球の冊封を巡る様々な危機は、清を中心としたこれまでの国家間関係が崩壊しつつあったことを示している。その最大の要因は欧米諸国の本格的なアジア進出であり、清、日本そして琉球などアジア諸国は否応なしに西欧の条約システムに組み込まれていった。しかし条約システムに組み込まれていきながらも、清と琉球は従前の国家間関係を堅持していこうとした。琉球側としては欧米諸国からの外圧、島津斉彬による琉球や王府人事に対する露骨な介入に対抗するためには、従来の枠組みに頼らざるを得ず、そして島津斉彬の急死後の政策転換とそれに伴う王府内の深刻な内部対立の結果、王府と王権の権威低下を招いており、権威回復のためには冊封の実現が不可欠であった。一方清にとっても自らの権威の保持と中国周辺の国家間に結ばれていた伝統的秩序の維持に注力せねばならなかった。 尚泰の冊封については薩摩藩も江戸幕府も異議を唱えることは無く、琉球と清との従来の関係は一応存続を保証された形になった。しかし冊封は明治維新の2年前であり、日本が急速に国力を増強していく中で清との関係は危機に瀕していく。
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