尚温王時代以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/16 06:24 UTC 版)
時代が降り18世紀、康煕、乾隆の年代にもなると久米村人も琉球に同化してしまい、官生の質も低下したらしく派遣されながら早々に口実を設けて帰国を願う有様で、一方で同じく久米村から多く輩出した勤学は、修学に励んだ事と官生が冊封毎に派遣される臨時的なものでもあったため、次第に官生に代わる地位を占めるようになった。程順則・名護親方寵文や三司官に就いた蔡温がこれである。 乾隆23年(1758年)、蔡世昌が官生に選ばれたが、親類である蔡温から留学中は「詞章の学を専にしないで、治国平天下の道を学んで来るように」と諭されたため、政治学を専攻して乾隆27年に官生史上稀な好成績で国子監を卒監、帰国した。しかし、「治国平天下の道」を専にしたために詩文が拙であったためか郷党に受け容れられず、世昌は久米村から離れて首里の人士に交わり、勤学ながらも三司官まで登り詰めて政権を担った蔡温の道を目指すようになり、これが官生騒動を引き起こす遠因ともなった。
※この「尚温王時代以前」の解説は、「官生」の解説の一部です。
「尚温王時代以前」を含む「官生」の記事については、「官生」の概要を参照ください。
- 尚温王時代以前のページへのリンク