尚武集団の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:57 UTC 版)
「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「尚武集団の戦闘」の解説
バギオに方面軍司令部を置いたルソン島北部の尚武集団に対し、連合軍はアメリカ第6軍の第1軍団を中心に攻撃を進め、1月下旬には沿岸の日本軍第23師団などに大打撃を与えていた。2月下旬に、連合軍は山岳地帯の日本軍陣地に対して攻撃を開始し、バギオを巡って日本軍の第23師団・独混第58旅団と交戦した。また、東部の穀倉地帯カガヤン渓谷への進入路を巡って、バレテ峠・サラクサク峠で第10師団・第105師団・戦車第2師団などと一進一退の激戦となった。 バギオ地区では日本軍が4月までアメリカ軍の北進を阻止していたが、西海岸からナギリアン経由で迂回侵攻され、4月下旬にバギオは陥落した。その直前に方面軍司令部はカガヤン渓谷へ脱出し、ホセ・ラウレル大統領らも日本本土へ避難した。 バレテ峠でも日本軍は力戦し、陣地を侵食されながらも5月まではカガヤン渓谷への連合軍進入を防いでいた。しかし、物資や食糧が減少していくとともに戦力も低下し、6月1日についに日本軍は退却した。日本軍は、バギオから後退してきた第23師団らと合流して第二線陣地へ向かった。 その後、6月にはルソン島北端のアパリにもアメリカ軍が空挺降下し、尚武集団は包囲攻撃を受ける状況となった。残存兵は陣地に篭って最後の抵抗をしたが、日本軍各師団の兵力は約20 %ほどにまで減少していた。食糧なども不足し、飢餓や病気に倒れる者が続出する惨状となって終戦を迎える。
※この「尚武集団の戦闘」の解説は、「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の解説の一部です。
「尚武集団の戦闘」を含む「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事については、「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の概要を参照ください。
- 尚武集団の戦闘のページへのリンク