冊封体制の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 06:22 UTC 版)
周王朝では頂点である王がその下の諸侯に対して一定の封地を分割して与え、その領有を認める封建制が行われていた。その後の春秋戦国時代にはその形態が崩れ、再統一をした秦では封建制を否定する形で皇帝が天下の全ての土地を直接支配し、例外を認めない郡県制が行われた。 全ての土地を直接支配すると言うのはもちろん理念上の話であり、現実には匈奴を始めとして秦の支配に従わない周辺民族が多数存在した。しかしこの理念がある限りはこれら周辺民族に対しては征服するか無視するかのいずれかしか無くなり、国際関係の発生のしようが無かった。 秦に取って代わった漢では郡県支配をする地域と皇族を封建して「国」を作らせて統治させる地域に分ける郡国制を行った。この郡国制が登場したことにより、周辺民族の「国」もまた中国の内部の「国」として中国の「天下全てを支配する」と言う思想と矛盾無く存在できるようになるのである。 冊封の事例の始めとして、衛氏朝鮮に対するものと南越国に対するものが挙げられる。この二国はそれぞれ漢より「朝鮮王」・「南越王」の冊封を受け、漢の藩国となったのである。 両国は武帝の治世時に滅ぼされ、朝鮮の土地には楽浪郡・玄菟郡・真番郡・臨屯郡の漢四郡が、南越の土地には南海郡・交阯郡などが置かれ、漢の郡県支配の元に服すようになり、冊封体制も一旦は消滅する。 一方、武帝の治世時より儒教の勢力が拡大し始め、前漢末から後漢初期にかけて支配的地位を確立する。この影響により華夷思想・王化思想もまた影響力を強め、冊封が匈奴・高句麗などの周辺国に対して行われるようになり、再び冊封体制が形成され始める。この時期、倭の奴国の王が後漢・光武帝より「漢倭奴国王」の爵号を受けている(57年)。
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