冊封使来琉時の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「冊封使来琉時の対応」の解説
清代においては、琉球側から請封があると皇帝が冊封使の人選を命じた。皇帝が求める冊封使人選の基準は学識の深い重厚な人物とされ、清代は8回冊封使が琉球へ派遣されたが、正・副計16名の冊封使のうち13名が進士であり、うち科挙でトップの成績を取った状元も2名いた。ちなみに清代は明代と較べて冊封使の人選を慎重かつ丁寧に行ったとされている。冊封使は皇帝の代理人として琉球で冊封儀式を執り行うため、それに相応しい衣服や黄蓋(黄色の傘)、龍旗(龍を描いた旗)などが貸与され、亡くなった前国王に対する皇帝の弔辞、そして国王に封じる詔書などを琉球へ持参した。 明代から清で最初の派遣であった1663年の冊封使までは、福州で新たに船を建造して琉球へ向かった。そのため船の完成まで冊封使は福州でかなりの長期間、待たされることになった。特に明代後半には官僚の腐敗が目立つようになって、冊封使が乗船する船の建造費用の流用という問題が発生し、福州の当局者と冊封使との間でしばしば揉め事が起きた。清代になると冊封使は船を借り上げて琉球へ向かうことが通例となったが、船主に賃船料を支払わない代わりに琉球へ商品を持ち出す許可を与えていた。冊封船の乗組員や駕籠かき、銅鑼叩き、ラッパ吹きなどといった随行員の多くの正体は福州の商人たちであった。彼らが個人的に冊封船に商品を持ち込んだことはいうまでもない。 冊封使が琉球で行う主な儀礼としては、迎詔儀、論祭礼、冊封礼、謝恩儀などがあった。まず国王とその臣下たちは、冊封船が到着するのを那覇港で出迎えた。到着すると那覇港で皇帝の詔勅の到着を歓迎する迎詔儀が執り行われた。続いて皇帝の代理として故国王を祀る論祭礼が崇元寺で行われた。論祭礼の終了後すぐに冊封礼の準備に取り掛かった。 冊封礼を迎えるにあたり、冊封使一行が通過する道路は花綱で飾り立てられた。冊封詔書、皇帝からの下賜品は龍や花綱で飾られたみこしに乗って、大勢の見物人が見守る中で宿舎の天使館から首里城へと向かった。首里城で出迎えた国王や臣下たちは、まさに皇帝が首里城に入城するがごとく冊封詔書、皇帝からの下賜品に対して三跪九叩頭の礼を行った。それから音楽が奏でられる中、冊封儀礼が執り行われた。儀式の中核は皇帝から琉球国王に封ずる旨の詔書の朗読である。国王以下は跪きながら朗読を聞き、終了後は皇帝に感謝の意を込めて三跪九叩頭の礼を行う。この時点でこれまで公式には世子であったものが、皇帝から国王に封じられたことになった。その後に行なわれる下賜品の授与時にも国王以下は皇帝に感謝の意を込めて三跪九叩頭の礼を繰り返す。なお詔勅は規定によれば中国に持ち帰ることになっていたが、琉球国王は国の宝とすべく手もとに置きたいとの要請するようになっていた。そしてこれまでの詔勅をきちんと保存していることを冊封使に示すと、国王の要請は認められ、詔勅は琉球側に手渡された。そこで国王はまた感謝の意を込めてひれ伏すのである。詔勅を琉球側に渡す習慣は明代からのもので、これが冊封礼の最後の儀礼であった。そして後日、国王や臣下たちが首里城内で皇帝が居る北方に向かい感謝の意を表す謝恩儀が行われた。
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