冊封使節による貿易とその影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「冊封使節による貿易とその影響」の解説
冊封使が琉球へ向かう際には皇帝からの下賜品を携行した。これも冊封貿易の一環と言えるが、冊封使の随行員たちもまた中国産品を持ち込み、琉球で交易活動を行った。冊封のたびに琉球に持ち込まれる商品の量は多く、琉球王府の重い負担となってのしかかった。持ち込まれた荷物は生糸や織物類、漢方薬の薬草類、書画書籍、工芸品など多岐に渡った。 1719年の冊封時は、通常の取引では大量の商品が売れ残ってしまった。売れ残った商品は結局琉球王府が買い取らなければならなくなったが、この買取価格を巡って琉球側と中国側とで深刻な対立に発展した。結局琉球側は蔡温を調停役として立てて、琉球側の主張する買取価格に上乗せする形で決着がついたが、買取費用捻出のために琉球王府は民間から銀のかんざし、はたまた銅や錫の食器類までも強制供出させて何とか急場を凌いだ。 琉球側としても中国側から吹っ掛けられないように、事前に福州で商品価格の調査等、市況の実地調査を行い、更には琉球側と中国側の銀のレートについての調査も行った。その一方で商品の琉球国内での価格については、出来得る限り情報が冊封使一行に伝わらないように心がけた。そして後には中国側に持ち込みを歓迎する品目や、逆に歓迎されない品目について事前に情報を伝えるようにもした。しかし実際問題として1719年ほどではないにしても、琉球側と中国側との間で商品の評価価格に差が出てしまい、トラブルになるのは避けられなかった。 しかし全ての冊封使が持ち込み品物の押し売りをして琉球側を困らせていたわけではない。1800年の冊封使の趙文偕らは、一行の荷物持ち込みを制限して琉球側の負担を減らすように気を配った。後述のように趙文偕らは琉球側の過剰ともいえる接待についても簡素化を求め、費用の節減に努めた。 そしてもちろん冊封使一行の帰国時も、冊封船を空にしていたわけではない。琉球側が用意していた主に昆布、アワビ、ナマコなどという海産物を購入し、大量に積み込んだ上で帰国の途についた。
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