冊封使歓待、中世までの歩み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 17:00 UTC 版)
「琉球舞踊」の記事における「冊封使歓待、中世までの歩み」の解説
1370年頃より、三山時代の各王国が中国(当時の明、後に清)が朝貢関係を結び、1429年の琉球統一後の琉球王国でも朝貢貿易関係が続いた。当初は戦乱の時代であったが、尚巴志王による統一により文化的余裕が生ずると、王国の歴代王統により盛んに中国大陸や東南アジアの文化、文物を取り入れるようになった。三線もこの頃に流入した。 中国との関係では、琉球の国王の代替わりごとに、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が派遣されるようになり、半年近く琉球に滞在する使節のため歓待の宴が催されるようになった。中秋の宴,重陽の宴,拝辞の宴など、首里城内に舞台を設置して芸能の舞を冊封使に披露したのが琉球舞踊の原型と考えられている。
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