冊封体制の崩壊と再生とは? わかりやすく解説

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冊封体制の崩壊と再生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 06:22 UTC 版)

冊封」の記事における「冊封体制の崩壊と再生」の解説

冊封体制安定も唐の衰退と共に揺らぎ見せ、唐滅亡によって冊封体制のみならず東アジア世界崩壊することになる。 五代十国時代の後、中国統一した宋(北宋南宋)では遼や金などに対して対等更に臣下としての礼を取らなければならなくなり冊封体制中心とは到底なりえなかった。 その一方で宋代元代通じて中国中心とした交易網が飛躍的に発展しており、これが以後冊封体制再生大きな役割を果たす洪武帝が元を北に追いやり(北元)、明が成立する冊封体制東アジア世界再生される朝鮮半島に於いては高麗に代わって李氏朝鮮興り、明の冊封受けて朝鮮王とされた。 この頃日本では朝廷分裂した南北朝時代という特殊な状況もあり、南朝征西将軍であった懐良親王が、明からの倭寇鎮圧要請機に北朝対し勢力正統性主張するため日本国王として冊封受けている。また後に北朝室町幕府3代将軍足利義満も、明との貿易による利益を得るため、同じく日本国王として冊封受けている。明は当初義満資格について天皇陪臣に過ぎないとして通行拒んだものの、国情を脅かす倭寇鎮圧を、権力基盤確立した義満期待して妥協し最終的には、位階上天皇との封建的関係性明白な准三后称する義満と関係を結んだ以降日明間で勘合貿易が行われることとなったが、これは朝貢形式とっていたため、日本体面を汚すとして4代将軍義持によって中断される。しかし幕府財政状況悪化考慮した6代将軍義教によって再開され1549年13代将義輝の代まで続けられた。室町幕府得た利益、即ち明の支出多大であり、これには倭寇鎮圧見返りという性格があったと見られている。 なお、日本では懐良親王が明の太祖からの朝貢促す書簡無礼見なし使者斬り捨てたことに表れるように、中華中心華夷観を否定し対等外交志向する向き強かった南朝北朝および室町幕府いずれも天皇冊封受けておらず、前者天皇尊厳傷付けることなく国内政治利用し得る「日本国王」の称号を得るため、後者は、実権握り天皇代替する立場としての日本国王」になるためという思惑が、それぞれ指摘される明滅亡後、清代には冊封体制範囲北アジア東南アジアなどに大きく広がりインド以東ではムガル帝国鎖国体制下の日本のみが冊封体制に入らなかった。 また冊封称号違いについて、身内目される国は『王』化外の国は『国王』と使い分けられている。皇帝からの書状についても違いがあり、北元吐蕃には「皇帝問」、その他には「皇帝勅」としている。

※この「冊封体制の崩壊と再生」の解説は、「冊封」の解説の一部です。
「冊封体制の崩壊と再生」を含む「冊封」の記事については、「冊封」の概要を参照ください。

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