冊封使と慶賀使の影響
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「薩摩藩の長崎商法」の記事における「冊封使と慶賀使の影響」の解説
琉球側からの長崎商法の停止命令解除要請とともに、薩摩藩が幕府に対する交渉カードとして利用したのが冊封使と慶賀使であった。折しも天保8年(1837年)は、清の皇帝の使者である琉球国王尚育の冊封使が派遣される予定であった。そして天保11年(1840年)には、薩摩藩主斉興の参府に併せて新将軍家慶就任を祝う慶賀使が派遣される見込みであった。天保8年(1837年)3月の幕府への報告の中で、ともに幕府のご威光に直結する問題であるとして、この重要事を滞りなく実現する責任が薩摩藩主斉興にはあり、また財政的負担も莫大なものになると、幕府に対して強く再考を迫った。天保8年(1837年)3月に江戸城西の丸が全焼した影響で、慶賀使の派遣は天保13年(1842年)に順延となったものの、全焼の翌4月には薩摩藩側から、延期にはなったものの慶賀使の派遣は重要事であることに変わりはなく、長崎商法の停止命令解除要請をぜひお聞き届けいただきたいとの念押しがあった。 この薩摩藩側からの要請に幕閣内に動揺が走った。老中水野忠邦は勘定奉行内藤矩佳、明楽茂村らに薩摩藩の要請について検討を命じたものの、長崎奉行久世広正による長崎の取り締まりが効果を見せ始めているので、久世に薩摩藩の要請を回して意見を聴取した上で回答したいと、結論を出すことを避けた。そして11月に出された久世の意見書もまた、長崎商法の停止は琉球救助の道を断つことになり、それは薩摩藩の困難に直結するため、仁政を行うべき幕府の政治姿勢に悖ることになり、問題は国政の根幹に関わることで軽々に意見を申し上げられないとして幕府勘定所に再審議を求める内容で、久世もまた幕府勘定所に判断を投げて結論を出そうとはしなかった。 勘定所、長崎奉行が結論を出そうとしない姿勢に対して水野忠邦は業を煮やした。水野のやり方は強硬であり、久世に意見書の書き換えを命じ、薩摩藩の要請は認められないとの内容に改めさせたのである。
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