冊封体制の完成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 06:22 UTC 版)
後漢滅亡後、中国は長い分裂時代を迎える。その一方、日本列島に於いては、239年?にいわゆる邪馬台国の卑弥呼が魏に対して使者を送り親魏倭王の爵号を受け、また朝鮮半島に於いては、4世紀半ばに百済・新羅が興るなど周辺諸国の成熟が進み、冊封体制の完成へと進んでいく。 五胡十六国時代には高句麗が前燕により征服されて冊封を受けるようになり、前燕を滅ぼした前秦に対しても朝貢した。新羅もまた高句麗にしたがって前秦に対して朝貢した。一方、二国への対抗上、百済は東晋に対して朝貢し、冊封を受けている。 南北朝時代に入ると、朝鮮三国は南朝から冊封を受け、倭もいわゆる倭の五王が南朝より冊封を受けた。この時期、百済は倭の影響下、新羅は倭の支配下にあり、中華秩序下での支配権を得ようと南朝の宋から承認を得るため自ら冊封を受けた。新羅については承認されたが、百済は既に宋の冊封国であり倭の百済支配が承認される事はなかった。高句麗は北朝の北魏に対しても入朝し冊封を受け、百済に対抗する姿勢を見せた。一方百済もまた高句麗に対抗して北魏に朝貢している。 この後、北朝・南朝それぞれを頂点とする二元的な冊封体制が成立し、この時代が東アジア世界および冊封体制の完成期と見られる。
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