冊封への対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 08:11 UTC 版)
康熙55年(1716年)、尚敬王就任に伴う冊封使を求める使節団の副使に選ばれ、2月25日に35歳で申口座(三司官への取り次ぎ役)、7月23日には末吉地頭職となった。11月15日に那覇を発ち北京へ向かったが、途中で暴風に遭い12月2日に久米島へ漂着した。翌年の1月20日に久米島を発ち、2月2日から7月12日まで福州に滞在し、10月28日に北京へ到着した。翌年1月8日に北京王府へ貢物を納め、2月27日に勅書を受け取った。2月29日に北京を発ち、福州を経て8月9日に帰国した。 康熙58年(1719年)、38歳で紫金大夫、末吉親方となった。同年6月、清からの冊封船が那覇に到着した。このとき冊封使の従者が大量の貨物を持ち込み、琉球王府に買い取りを要求した。しかしながら当時の王府にはこれに対応できるだけの財力がなく、従者たち500名との間で騒動となった。王府の高官たちは交渉をまとめることができず、対応を蔡温に一任した。蔡温は琉球王府の状況を説明し、貨物の評価に立ち会い、さらには国中から有価物品を集めるなどして騒動を収めた。冊封使は翌年2月16日に那覇を発った。この年の6月13日、蔡温は39歳で三司官座敷(三司官となりうる資格)を認められた。
※この「冊封への対応」の解説は、「蔡温」の解説の一部です。
「冊封への対応」を含む「蔡温」の記事については、「蔡温」の概要を参照ください。
- 冊封への対応のページへのリンク