朝鮮王国時代の独立運動とは? わかりやすく解説

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朝鮮王国時代の独立運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:30 UTC 版)

朝鮮独立運動」の記事における「朝鮮王国時代の独立運動」の解説

この時代独立運動は、清を中心とした冊封体制からの離脱目的として行われた1637年三田渡の盟約締結以降朝鮮王朝は清の冊封国であり、清は朝鮮従属国として認識していた。そのことは、清の北洋通商大臣李鴻章1886年編纂した通商章程成案彙編』において、朝鮮の国旗である太極旗を「大清国高麗国旗」と明記して掲載している ことからも伺える。ただし、冊封体制において冊封を受ける側の国は高度な自治保障されていたため、完全に主権を奪う植民地化とは異な概念であることを注意しなければならない。だが、明治維新後の日本征韓論が高まると、朝鮮との近代的な外交関係構築目指す明治政府(後の大日本帝国)は、冊封体制維持名目国交締結渋る朝鮮対し武力圧力をかけ、1876年朝鮮初の近代的な条約となる日朝修好条規結ばれた。これにより、朝鮮冊封体制維持しながら西洋式外交関係有する対外的不安定な状態になった当時朝鮮王家である李氏両班呼ばれる支配階級によって統治されていたが、日本による圧力が強まるにつれ、日本対抗する側(事大党)と、日本協力して冊封体制脱しようとする側(開化派)に別れ対立起こった日本側からすると、後者独立派として扱われる冊封体制離脱目指す勢力日本留学し福澤諭吉などの支援受けていたが、王を始めとする離脱望まない勢力によって粛清されていった壬午軍乱等)。このような中、東学党の乱甲午農民戦争)を始めとする朝鮮国内の農民反乱対し冊封体制維持を望む清は朝鮮協調し反乱鎮圧する等し朝鮮への影響力強めていった。朝鮮冊封体制離脱を望む日本清国戦端開き日清戦争)、下関条約により朝鮮冊封体制離脱確認された。なお、下関条約日本と清の間で結ばれた条約であり、朝鮮意思反映されていない下関条約締結を受け、朝鮮王国国内体制改め大韓帝国旧韓国)となり、近代的な国家として独立した態となった。だが、朝鮮への影響力強めたい日本意図とは裏腹に日本の影響下に入ることを望まない韓国皇帝始めとした派閥ロシア帝国接近していった。このため韓国ロシア接近恐れた日本は、同じくロシア極東における影響拡大嫌ったイギリス同盟日英同盟)してロシアとの間に戦端開き日露戦争)、ポーツマス条約締結ロシア朝鮮における影響力弱めることに成功したその後日本は、日韓協約など様々な不平等条約旧韓国結んで朝鮮における影響力強めた末、最終的に日韓併合条約締結至って朝鮮日本一部併合した韓国併合)。

※この「朝鮮王国時代の独立運動」の解説は、「朝鮮独立運動」の解説の一部です。
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