朝鮮王国時代の独立運動
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「朝鮮独立運動」の記事における「朝鮮王国時代の独立運動」の解説
この時代の独立運動は、清を中心とした冊封体制からの離脱を目的として行われた。 1637年の三田渡の盟約締結以降、朝鮮王朝は清の冊封国であり、清は朝鮮を従属国として認識していた。そのことは、清の北洋通商大臣・李鴻章が1886年に編纂した『通商章程成案彙編』において、朝鮮の国旗である太極旗を「大清国属 高麗国旗」と明記して掲載している ことからも伺える。ただし、冊封体制において冊封を受ける側の国は高度な自治を保障されていたため、完全に主権を奪う植民地化とは異なる概念であることを注意しなければならない。だが、明治維新後の日本で征韓論が高まると、朝鮮との近代的な外交関係構築を目指す明治政府(後の大日本帝国)は、冊封体制の維持を名目に国交締結を渋る朝鮮に対し武力で圧力をかけ、1876年に朝鮮初の近代的な条約となる日朝修好条規が結ばれた。これにより、朝鮮は冊封体制を維持しながら西洋式の外交関係も有する対外的に不安定な状態になった。 当時、朝鮮は王家である李氏と両班と呼ばれる支配階級によって統治されていたが、日本による圧力が強まるにつれ、日本に対抗する側(事大党)と、日本と協力して冊封体制を脱しようとする側(開化派)に別れ対立が起こった。日本側からすると、後者が独立派として扱われる。冊封体制離脱を目指す勢力は日本に留学し、福澤諭吉などの支援を受けていたが、王を始めとする離脱を望まない勢力によって粛清されていった(壬午軍乱等)。このような中、東学党の乱(甲午農民戦争)を始めとする朝鮮国内の農民反乱に対し、冊封体制維持を望む清は朝鮮と協調し、反乱を鎮圧する等して朝鮮への影響力を強めていった。朝鮮の冊封体制離脱を望む日本は清国と戦端を開き(日清戦争)、下関条約により朝鮮の冊封体制離脱が確認された。なお、下関条約は日本と清の間で結ばれた条約であり、朝鮮の意思は反映されていない。 下関条約の締結を受け、朝鮮王国は国内体制を改めて大韓帝国(旧韓国)となり、近代的な国家として独立した状態となった。だが、朝鮮への影響力を強めたい日本の意図とは裏腹に、日本の影響下に入ることを望まない韓国皇帝を始めとした派閥はロシア帝国に接近していった。このため韓国とロシアの接近を恐れた日本は、同じくロシアの極東における影響拡大を嫌ったイギリスと同盟(日英同盟)してロシアとの間に戦端を開き(日露戦争)、ポーツマス条約の締結でロシアの朝鮮における影響力を弱めることに成功した。その後日本は、日韓協約など様々な不平等条約を旧韓国と結んで朝鮮における影響力を強めた末、最終的に日韓併合条約締結に至って朝鮮を日本の一部に併合した(韓国併合)。
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