朝鮮無煙炭と緑化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 16:27 UTC 版)
朝鮮半島の平壌周辺の無煙炭は練炭の原料としての需要があり、日本は炭田開発を進めた(朝鮮半島は豊富な無煙炭埋蔵とは逆に、工業に向いた瀝青炭がほとんど産出せず満州や日本などから半島への輸入が必要であった)。当初無煙炭は海軍燃料であったが、軍艦燃料の重油転換と並行して養蚕業用の暖房燃料として練炭需要が増えた結果、平壌周辺の無煙炭田開発が進められた。そして大正時代の半ばに「穴開き」の練炭が開発され家庭用燃料として普及した結果、平壌周辺の無煙炭の出炭高は伸びた。だが、需要が一番伸びる冬期に積み出し港である保山、鎮南浦港が結氷する弱点を平壌無煙炭は抱えていた。更に日本では昭和の都市化の進展にともなって蒸気機関車の排煙に対する都市住民の苦情が強まり、日本産の瀝青炭を焚くより平壌無煙炭の練炭を焚くことが求められた。それへの対応が不凍港である東海岸の元山港への陸上輸送ルートの確保、平元線の開通であった。その後の三陟炭田と、三陟炭鉱の出炭高の急上昇は日本における練炭需要抜きには語られない(平壌鉱業所は、のちに海軍第5燃料廠となる)。三陟無煙炭田が開発されたのは1936年(昭和11年)だった。 朝鮮総督府は朝鮮の至る所で見られた禿山への植林作業を進め、練炭の普及を図った。その結果、朝鮮総督府施政下を通して山野は緑化されていった。その作業はダム建設の進んだ朝鮮半島の北部の方でも進んだ。治山治水の為もあったが、無煙炭産地に近接していたからでもある。穴あき練炭は1930年代から40年代前半迄、平壌の主力産業といえるものであった。しかし終戦を機に粘結剤としての台湾産廃糖蜜の供給路が絶たれたことや、戦後の争乱で日本人居留者が引き上げたこともあり、平壌周辺での練炭製造は途絶えることになる。
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