朝鮮水軍との遭遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
日本水軍は釜山上陸の際、積極論の加藤嘉明と慎重論の脇坂安治とで仲違いして、巨済島の元均の艦隊を取り逃がしたが、結果的には前述のように慶尚道水軍は勝手に自滅したためことなきを得た。九鬼嘉隆、加藤嘉明、藤堂高虎らは、4月下旬に陸に揚げた部隊が釜山を発して漢城府を目指していたあいだも、鎮海湾、巨済島、加徳島、蔚山湾で敵船を捜索して、特に抵抗を受けずに70隻余を拿捕して、慶尚道沿岸の掃討を完了させた。 しかし、分限を墨守していた李舜臣と李億祺も、日本軍の破竹の進撃という状況もあってか、5月4日、ようやく慶尚道水域への進入を決断して迎撃を開始した。6日、元均も単船でこれに合流した。7日、この朝鮮水軍は加徳島に向かう途中、斥候の報告で巨済島の東側の玉浦に停泊する藤堂高虎らの水軍と輸送船団を発見し、南に転じてこれを攻撃した。不意を突かれて日本側は十分に防戦できず、李舜臣・李億祺・元均の三将は朝鮮側でこの戦役初めての勝利を得た。また同日、帰途に合浦に向かっていた日本軍船に遭遇して攻撃。翌日も赤珍浦に停泊していた日本水軍と交戦して戦果を挙げ、そのまま麗水へと撤収していった。 詳細は「玉浦海戦」を参照 ただし、この戦勝の知らせは、逃避行の最中の朝鮮朝廷にはすぐには届かなかった。開城の宣祖は、漢城府が占領されたこともまだ知らなかったが、右承旨申磼を軍民の鎮撫に派遣したところ、すでに陥落していたことを知り、坡州から引き返して報告。朝鮮朝廷は狼狽し、5月4日夕方に慌てて出立した。韓応寅を巡察使として扈衛軍(王宮警護)を率いらせ、夜に金郊駅に野宿し、5日、平山府、6日に安城、鳳山、7日に黄州、そして8日に平壌に到着し、平安道巡察使宋慎言に迎えられた。出立の前に、金命元が漢江防衛を放棄した罪は寡兵のためであったと許され、引き続き臨津の固守が命じられた。京畿道、黄海道で徴した兵が与えられ、申硈を防禦使として遣わし、劉克良や李薲も後に領兵を率いて合流した。 また、李元翼は都巡察使に任命された。兪泓も都体察使として援兵に向かわせようという案もあったが、兵力が分散し過ぎるという異論があって向かわなかった。
※この「朝鮮水軍との遭遇」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「朝鮮水軍との遭遇」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。
- 朝鮮水軍との遭遇のページへのリンク