朝鮮派遣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 15:25 UTC 版)
「高雄丸 (日本海軍)」の記事における「朝鮮派遣」の解説
9月20日、高雄丸に花房代理公使を乗せ朝鮮に回航することが決定し、10月3日午後1時、高雄丸は長崎港を出港、朝鮮に向かった。10月4日午後2時20分、高雄丸は釜山浦港湾冬柏島内に着港し花房代理公使らは釜山浦に上陸した。釜山では船内でコレラが発生し3人死亡、4人発症、コレラの疑いの有る者が4人となり、10月8日午後2時15分(または2時31分)に高雄丸は1隻で長崎港に寄港した。長崎では患者を入院させ、乗員の検査と船内の消毒を行った。10月29日午前10時10分(または午前10時)に高雄丸は長崎を出港し、再び朝鮮へ向かった。 翌1878年(明治11年)1月6日、高雄丸は朝鮮から肥前田ノ浦に帰着した。1月11日午前10時30分神戸着1月18日午前10時に神戸を出港したが、同日機関が故障し一時停泊、1月20日午後4時30分(または午後4時25分)、高雄丸は横浜港に帰港した
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「高雄丸 (日本海軍)」の記事における「朝鮮派遣」の解説
朝鮮国の開港する港の選定のために高雄丸と鳳翔が派遣されることになった。3月27日に横須賀から横浜に回航、3月31日午後3時15分に横浜港を出港した。高雄丸には水路局員4名などが乗船し、花房義質代理公使も朝鮮へ派遣された。なお『恩給叙勲年加算調査』では3月31日兵庫発となっている。兵庫に4月2日着、4月13日に出港したが、播磨灘で機関が故障し翌日神戸に引き返した。4月19日午後0時16分に改めて兵庫を出港し、4月21日から翌日は門司浦で停泊、4月23日午前6時40分に釜山浦に到着した。以後6月まで、所安島、庇仁、豊島、牙山の朝鮮各地を巡った。6月27日に鳳翔と共に仁川湾を出帆し長崎に向かったが、濃霧のために度々航泊を余儀なくされた。7月2日に霧が晴れて航海可能となり、7月3日午後4時9分(または午後5時9分)に長崎に寄港した。長崎では石炭や消耗品の補充を行った他、高雄丸は同地でボイラーの修理を行った。8月6日午後1時に高雄丸は長崎港を出港、再び釜山、牙山、仁川を巡ったが、船内に脚気の病人が多数出て、9月8日午前7時27分(または午前7時30分)仁川を出帆、9月10日午後8時10分に長崎港に帰着した。9月27日午後0時(または午前11時)に長崎を再び出港、釜山浦、元山津を巡り10月16日釜山浦を出帆、10月17日下関着、翌18日午後11時30分に兵庫に帰着した。なお『恩給叙勲年加算調査』では10月17日に兵庫着としている。高雄丸は11月2日午前7時45分神戸出港、11月4日午前5時5分(または午前6時5分)に横浜港に帰港した。 11月13日に横浜から品川に回航した。 12月8日、高雄丸は水路局所轄の運送船と定められ、12月15日に水路局へ引き渡された。 高雄丸は12月28日に横須賀に回航し、翌29日午前に入湾し横須賀造船所で修理に着手、翌1880年(明治13年)1月9日に修理が完成、同日品川に回航した。
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