順天城の戦い後の経緯とは? わかりやすく解説

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順天城の戦い後の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 14:53 UTC 版)

順天城の戦い」の記事における「順天城の戦い後の経緯」の解説

順天の戦い先立つ8月18日豊臣秀吉は既に死去していた。その死は朝鮮派遣軍には秘匿されたままだったが、秀吉亡き後豊臣政権では五大老らによって明・朝鮮と和議結んだ上で諸軍帰国させ、戦争終結する方針決定しこの方針を伝え使者順天城の戦いの後、順天日本軍のもとに到着した。 これを受け小西らは明軍劉綎和議締結し人質受領して撤退の手筈を整えていた。しかし、11月7日明・朝水軍秀吉死去に伴う日本軍撤退動きを知ると根拠地古今島発ち11月10日には順天沖に現れ海上封鎖し撤退阻んだこのため小西らは明水軍の陳璘再交渉をして撤退約束取り付けることに成功し人質受け取った。ところが、日本軍撃滅を望む朝鮮水軍李舜臣がこれに激怒し抗議すると、陳璘も[要出典]約束反故にして順天日本軍帰国することを阻んだ小西ら五氏の窮地知った島津義弘立花宗茂高橋統増小早川秀包筑紫広門寺沢広高宗義智らは、水軍編成して順天救援向かい11月18日、露海峡明・朝水軍激突したのが露梁海戦である。小西行長松浦鎮信有馬晴信五島純玄大村喜前の五氏は戦い間隙縫って脱出成功し11月25日島津義弘とともに釜山出帆して帰国果たした

※この「順天城の戦い後の経緯」の解説は、「順天城の戦い」の解説の一部です。
「順天城の戦い後の経緯」を含む「順天城の戦い」の記事については、「順天城の戦い」の概要を参照ください。

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