順天城の戦い後の経緯
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「順天城の戦い」の記事における「順天城の戦い後の経緯」の解説
順天の戦いに先立つ8月18日、豊臣秀吉は既に死去していた。その死は朝鮮派遣軍には秘匿されたままだったが、秀吉亡き後の豊臣政権では五大老らによって明・朝鮮と和議を結んだ上で諸軍を帰国させ、戦争を終結する方針が決定し、この方針を伝える使者は順天城の戦いの後、順天の日本軍のもとに到着した。 これを受け小西らは明軍の劉綎と和議を締結し、人質を受領して撤退の手筈を整えていた。しかし、11月7日、明・朝鮮水軍は秀吉死去に伴う日本軍撤退の動きを知ると根拠地の古今島を発ち、11月10日には順天沖に現れ海上を封鎖し撤退を阻んだ。このため、小西らは明水軍の陳璘と再交渉をして撤退の約束を取り付けることに成功し、人質も受け取った。ところが、日本軍の撃滅を望む朝鮮水軍の李舜臣がこれに激怒し猛抗議すると、陳璘も[要出典]約束を反故にして順天の日本軍が帰国することを阻んだ。 小西ら五氏の窮地を知った、島津義弘、立花宗茂、高橋統増、小早川秀包、筑紫広門、寺沢広高、宗義智らは、水軍を編成して順天へ救援に向かい、11月18日、露梁海峡で明・朝鮮水軍と激突したのが露梁海戦である。小西行長、松浦鎮信、有馬晴信、五島純玄、大村喜前の五氏は戦いの間隙を縫って脱出に成功し、11月25日、島津義弘らとともに釜山を出帆して帰国を果たした。
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