玉浦海戦とは? わかりやすく解説

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玉浦海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 02:17 UTC 版)

玉浦海戦(ぎょくほかいせん、朝鮮読みで玉浦はオクポ)は、文禄元年(1592年5月7日巨済島東側にある玉浦という入江において行われた海戦である。李舜臣李億祺元均の三将が率いる朝鮮水軍は全羅左水営(麗水)より出撃して、停泊中の日本の水軍と輸送船団とを襲撃し、文禄の役における初めての朝鮮側勝利をあげた。


  1. ^ a b c d 『宣祖修正實録』巻26より。下記ウィキソースに原文あり。
  2. ^ a b 『玉浦破倭兵状』より。
  3. ^ a b 主力となる大型軍船。朝鮮の水軍で初めて造られるようになった軍事専用の戦船で、火砲を備え、階層構造を持つ。他の船は支援船に過ぎず、基本的には板屋船が攻撃を一手に担った。
  4. ^ a b 挟板船(きょうはんせん) は、中型の汎用船舶で、朝鮮独特の火砲などの武装はほぼなく、兵員輸送が主な任務。挟板船(あるいは挟船)という名前は、板で挟んだような構造から由来する。
  5. ^ a b 鮑作船(ほうさくせん) は、平時は漁船として使われる小船を徴発したもので、特に戦闘能力はなく、快速のために戦時は偵察や連絡など雑用に用いられた。
  6. ^ 参謀本部 1924, p.214
  7. ^ 『李忠武公全書』より。
  8. ^ 元均は釜山に来襲した日本の軍船を「500隻」と報告している。
  9. ^ 朝鮮の軍法では、地方の軍隊は朝廷からの命令によらず独自の判断で管轄区域外へ軍を動かす事は禁じられていた。
  10. ^ そもそも慶尚右水使の艦隊が最大で、73隻の板屋船(戦艦)を擁する主力艦隊だった。元均はこれを満足に戦わずに沈めてしまったことで後世強い批判を受けた。しかし元均は敵船を500隻と遭遇して10隻沈めたが多数の敵に抵抗しきれなかったと報告していた。金 & 桜井 2001, pp.47-49
    全羅左水使の艦隊の規模は、その3分の1ほどの24隻の板屋船で構成され、小船を含めても90隻に満たない李舜臣の艦隊では到底歯が立たないと考えて出撃を躊躇ったとされる。
  11. ^ 李億祺が何隻で合流したか不明である。54隻と李舜臣の2倍保有していたとされる板屋船は合流後も増えておらず、李億祺の記述がない史料もある。
  12. ^ 金 & 桜井 2001, pp.196-197、ほか


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