釜山浦海戦
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釜山浦海戦 | |
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戦争:文禄の役 | |
年月日:文禄1年8月29日(1592年10月4日) | |
場所:朝鮮国慶尚道釜山 | |
結果:李氏朝鮮の勝利[1][2][3] | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
李舜臣 李億祺 元均 |
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戦力 | |
戦船74隻、挟船92隻 | 470隻 |
損害 | |
不詳 | 不詳 |
釜山浦海戦(ふざんほかいせん)は、文禄の役において朝鮮水軍が日本軍の拠点となっていた釜山を攻撃したが勝てずに退却した戦闘。
背景
文禄の役開戦にあたり日本軍は最初に釜山に上陸し占領した(釜山鎮の戦い)。それ以来、肥前名護屋から壱岐・対馬を経て釜山に至るルートが日本軍の海上交通路になっており、補給物資は一旦釜山に荷揚げされた後、陸路内陸に輸送されていた。云わば釜山は日本軍にとり補給連絡上の根本となる拠点であった。
これに対し、朝鮮水軍では李舜臣が「釜山は賊(日本軍)の根本なり。進んで之を覆せば、賊(日本軍)は必ず據(拠)を失う。[4]」と釜山を占領奪還することを諸将に宣言し行動を開始する。これは李舜臣直属の全羅左水営に、李億祺指揮下の全羅右水営と元均指揮下の慶尚右水営を加えるという実質的に朝鮮水軍の総力を結集した作戦であった。
経過
文禄1年(1592年)8月23日(明暦24日)李舜臣、李億祺等は水軍を率いて左水営(麗水)を発し、翌日蛇梁洋中において元均と会し、戦船74隻、挟船92隻をもって進み、この日唐浦に、26日斉浦に、27日天城浦に到り、28日(明暦29日)東萊の長林浦を偵察しその洛東江の上流(即ち金海及び亀浦付近)に日本の船が多く停泊すると聞き、溯航しようとしたが江口は狭隘であり戦に不便なのでこれを止めた。
29日(明暦9月1日)多大浦、西平浦の前洋を通過し絶影島を過ぎ釜山浦にさしかかれば、日本軍の艦船が停泊するもの400餘隻、朝鮮船が近迫するのを望み、艦上、城上、山上より巨丸を飛ばしてこれを防ぐ。日本側は停泊船舶に損害を受けた。朝鮮水軍では鹿島万戸鄭運以下死傷するものが多く出た。李舜臣は敵わぬこと知り兵を収めて退却し[5]加徳島、さらに左水営に還った。
影響
これまで連続的に出撃を繰り返してきた朝鮮水軍は、この戦いを境に目立った活動を停止する。ようやく活動を再開するのは翌年2月の熊川への攻撃である。また、李舜臣が釜山前洋に現れたのはこの時が最初で最後となった。しかし、この海戦で日本側は制海権を失った。 第二次世界大戦中、連合軍の空軍、陸軍、海軍を指揮し、アメリカ太平洋艦隊司令官、太平洋方面軍司令官として第二次世界大戦の海軍史に大きな役割を果たしたチェスター・W・ニミッツは、この戦いを「日本艦隊に与えられた壊滅的な打撃は、朝鮮半島の敵軍を孤立させ、本拠地から切り離した。」と評した。 オックスフォード大学の講師であるジェームズ・B・ルイスは、この戦いを次のように描写した。
「この海戦は朝鮮の海戦史において重要な意味を持つ。なぜなら、この年に行われた10回の海戦のうち、朝鮮が比較的劣勢な火力で日本海軍基地を攻撃した唯一の海戦であったからだ。李氏朝鮮の幕僚の一人である鄭運が戦闘中に銃撃され、命を落としたにもかかわらず、李氏はこの海戦だけで100隻以上の船を沈めるという大勝利を収めた。冬が近づくにつれ、両軍は海上作戦が不可能となり、冬を通して停泊したままでいた。」
アメリカの歴史家サミュエル・ホーリーはこの戦いを次のように描写している。
「韓国海軍による釜山攻撃は驚くべき成功を収めた。戦死者5名、負傷者25名、艦船の喪失0名という結果で、日本艦隊の4分の1を壊滅させた。」
脚注
- ^ Chester W. Nimitz, New York Times, Oct, 10, 1944. https://www.nytimes.com/1944/10/10/archives/nimitz-startles-reporters-with-communique-of-victory-off-korea-adds.html Archived 2021-07-19 at the Wayback Machine.
- ^ James B. Lewis, The East Asian War, 1592-1598; International relations, violence, and memory, Routledge Press, 126p (2014)
- ^ “Routledge”. 2015年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月30日閲覧。
- ^ 李忠武公全書 巻之十三 附録五 『宣廟中興志』
- ^ "八月、李舜臣進攻釜山、鹿島萬戸鄭運死之、舜臣引兵還。" 李忠武公全書 巻之十三 附録五 『宣廟中興志』
参考文献
- 参謀本部編『日本戦史・朝鮮役(本編・附記)』偕行社、大正13年(1924年)。
関連項目
- 釜山浦海戦のページへのリンク