泗川の戦い
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泗川の戦い(しせんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。日本の慶長3年/明の万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島の泗川で島津義弘が率いる島津軍2千が明の武将董一元の率いる10万の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦いである[8]。絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。
- ^ 『島津家文書』 文禄5年(1596)12月5日付けの「唐入軍役人数船数等島津家分覚書」によれば、慶長の役当時、朝鮮へ出征した島津軍は戦闘要員が5,868人、非戦闘員が6,565人(夫丸3,900、加子2,000、道具衆665)であり、計は12,433人となっている。更に島津以久が332人、伊集院忠棟が2,332人で、島津軍の総計は、15,097人であった。朝鮮上陸から島津が大きく兵力を失うほどの敗戦はなかったため、泗川の戦いの頃にもほとんどの軍勢を保存していたと推測される。
- ^ このうち非戦闘員を除く実際の兵力は約8千人程度だった。
- ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十二日によれば、泗川攻略に投入された明の中路軍は26,800人、朝鮮軍は2,215人と記録されている。
- ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十日 「慶尚道觀察使鄭經世馳啓曰: 董都督初二日、入攻新寨之賊、打破城門、方欲入攻之際、茅遊撃陣中、火藥失火。蒼黄奔救、倭賊望見開門、突出放砲、天兵退遁、致死者、幾七千餘人、軍糧二千餘石、亦不爲衝火而退。伏屍盈野、兵糧、器械、狼藉於百三十里地、提督退還星州」
- ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13110008_007 『朝鮮宣祖実録』"遂進攻新寨, 以大砲打破城門, 大兵欲入之際, 茅遊擊陣, 火藥失火, 陣中擾亂, 倭賊望見開門, 迎擊左右, 伏兵四起, 大兵蒼黃奔潰, 死亡之數, 幾至七八千, 提督退晋州’ 云矣。"
- ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13110016_003 『朝鮮宣祖実録』”泗川之敗, 提督之軍, 過半致死”
- ^ 『島津家文書』には、島津忠恒の鹿児島方衆が10,108、島津義弘の帖佐方衆が9,520、冨隈(島津義久領)方衆が8,383、伊集院忠真の軍が6,560、北郷三久の軍が4,146、計38,717の首級を上げ、打ち捨てた死体数知れずと記録されている。また後述の通り『絵本太閤記』には、討ち取った明軍の数は3万余とある。《南浦文集·战亡文》や《新日本史》など日本側記録では「戦死者約8万人」とあるほか、朝鮮の『宣祖実録』の十月十二日の項には、この泗川の戦い・第二次蔚山城の戦い・順天城の戦いの3つを合わせて、明・朝鮮連合軍11万以上が動員されたと記されている。
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「泗川の戦い」
- ^ 東郷吉太郎編 『泗川新寨戦捷之偉蹟』 「義弘公年譜抄」 薩藩史料調査会、1918年10月。
- ^ 明史によると、戦の終盤に固城の日本軍(立花軍)も襲来していたため、明軍は遂に大敗し潰走した。十月,董一元遣將四面攻城,用火器擊碎寨門,兵競前拔柵。忽營中火藥崩,烟焰漲天。倭乘勢衝擊,固城倭亦至,兵遂大潰,奔還晉州『明史 朝鮮伝』
- ^ 島津顕彰会編 『島津歴代略記』、1986年10月。
- ^ この時の2匹の狐にまつわる踊りが「吉左右踊り」で、鹿児島県無形民俗文化財に指定されている。
- ^ 三木靖 『島津義弘のすべて』 新人物往来社、1986年7月。ISBN 4404013566。
- ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十二日 「而三路之兵、蕩然俱潰、人心恟懼、荷擔而立」
- ^ 『明神宗実録』巻328, 萬暦二十六年十一月一日
- ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十七日
- ^ 那波利貞 『月峯海上録攷釈』 1961年
- 1 泗川の戦いとは
- 2 泗川の戦いの概要
- 3 背景
- 4 絵本太閤記での記述
- 5 関連項目
泗川の戦い
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詳細は「泗川の戦い」を参照 慶長3年(1598年)9月末、明将董一元率いる明・朝鮮連合軍が泗川倭城に攻め寄せた。明軍はまず泗川古城を強襲、主将川上忠実は数百の兵で頑強に抵抗し、城から出撃すると明将遊撃李寧・盧得功以下数百人を討ち取った。しかし、数の上で圧倒的に不利な川上忠実の軍勢は明・朝鮮連合軍の囲みを突破して泗川古城を放棄し、泗川新城への撤退を目指した。包囲を突破する際、150人余りが戦死したが、泗川新城へ撤退することに成功した。また川上忠実は、瀬戸口重治に命じて敵の食糧庫を焼き討ちさせ、これに成功した。大兵力の連合軍は食糧が不足していたが、食料庫を焼かれたことでさらに窮地に陥り、短期決戦を余儀なくされた。明軍は10月1日をもって泗川新城への総攻撃を行うことに決した。島津軍7000は数で大きく上回る明・朝鮮連合軍を迎撃することになる。1日、明・朝鮮連合軍が泗川新城への攻撃を開始。島津軍は敵を引き付け、弓銃の一斉射撃で敵を撃退。矢弾はほとんど命中し、敵の死体が山積みとなる。この戦闘中、明・朝鮮連合軍の火薬庫に引火し爆発した。この機に乗じて、島津軍は城門を開き打って出た。島津義弘は伏兵を出動させて敵の隊列を寸断して混乱させ、義弘本隊も攻勢に転じた。義弘自ら4人斬り、忠恒も槍を受け負傷するも7人斬るなどして奮戦した。混乱した連合軍は疲労していたことも手伝って、壊滅的被害を受けた。島津軍は南江の右岸まで追撃を行い、混乱し壊走する連合軍は南江において無数の溺死者を出した。明将董一元は星州まで逃亡した。この戦いは島津の大勝に終わり、明・朝鮮連合軍の死者は3万6000人を超えるとされる。
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