泗川の戦いとは? わかりやすく解説

泗川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/14 17:38 UTC 版)

泗川の戦い(しせんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。日本の慶長3年/万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島泗川島津義弘が率いる島津軍2千が明の武将董一元の率いる10万の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦いである[8]。絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。


  1. ^ 『島津家文書』 文禄5年(1596)12月5日付けの「唐入軍役人数船数等島津家分覚書」によれば、慶長の役当時、朝鮮へ出征した島津軍は戦闘要員が5,868人、非戦闘員が6,565人(夫丸3,900、加子2,000、道具衆665)であり、計は12,433人となっている。更に島津以久が332人、伊集院忠棟が2,332人で、島津軍の総計は、15,097人であった。朝鮮上陸から島津が大きく兵力を失うほどの敗戦はなかったため、泗川の戦いの頃にもほとんどの軍勢を保存していたと推測される。
  2. ^ このうち非戦闘員を除く実際の兵力は約8千人程度だった。
  3. ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十二日によれば、泗川攻略に投入された明の中路軍は26,800人、朝鮮軍は2,215人と記録されている。
  4. ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十日 「慶尚道觀察使鄭經世馳啓曰: 董都督初二日、入攻新寨之賊、打破城門、方欲入攻之際、茅遊撃陣中、火藥失火。蒼黄奔救、倭賊望見開門、突出放砲、天兵退遁、致死者、幾七千餘人、軍糧二千餘石、亦不爲衝火而退。伏屍盈野、兵糧、器械、狼藉於百三十里地、提督退還星州」
  5. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13110008_007 『朝鮮宣祖実録』"遂進攻新寨, 以大砲打破城門, 大兵欲入之際, 茅遊擊陣, 火藥失火, 陣中擾亂, 倭賊望見開門, 迎擊左右, 伏兵四起, 大兵蒼黃奔潰, 死亡之數, 幾至七八千, 提督退晋州’ 云矣。"
  6. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13110016_003 『朝鮮宣祖実録』”泗川之敗, 提督之軍, 過半致死”
  7. ^ 『島津家文書』には、島津忠恒の鹿児島方衆が10,108、島津義弘の帖佐方衆が9,520、冨隈(島津義久領)方衆が8,383、伊集院忠真の軍が6,560、北郷三久の軍が4,146、計38,717の首級を上げ、打ち捨てた死体数知れずと記録されている。また後述の通り『絵本太閤記』には、討ち取った明軍の数は3万余とある。《南浦文集·战亡文》や《新日本史》など日本側記録では「戦死者約8万人」とあるほか、朝鮮の『宣祖実録』の十月十二日の項には、この泗川の戦い・第二次蔚山城の戦い順天城の戦いの3つを合わせて、明・朝鮮連合軍11万以上が動員されたと記されている。
  8. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「泗川の戦い」
  9. ^ 東郷吉太郎編 『泗川新寨戦捷之偉蹟』 「義弘公年譜抄」 薩藩史料調査会、1918年10月。
  10. ^ 明史によると、戦の終盤に固城の日本軍(立花軍)も襲来していたため、明軍は遂に大敗し潰走した。十月,董一元遣將四面攻城,用火器擊碎寨門,兵競前拔柵。忽營中火藥崩,烟焰漲天。倭乘勢衝擊,固城倭亦至,兵遂大潰,奔還晉州『明史 朝鮮伝』
  11. ^ 島津顕彰会編 『島津歴代略記』、1986年10月。
  12. ^ この時の2匹の狐にまつわる踊りが「吉左右踊り」で、鹿児島県無形民俗文化財に指定されている。
  13. ^ 三木靖 『島津義弘のすべて』 新人物往来社、1986年7月。ISBN 4404013566
  14. ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十二日 「而三路之兵、蕩然俱潰、人心恟懼、荷擔而立」
  15. ^ 『明神宗実録』巻328, 萬暦二十六年十一月一日
  16. ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十七日
  17. ^ 那波利貞 『月峯海上録攷釈』 1961年


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泗川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「泗川の戦い」の解説

詳細は「泗川の戦い」を参照 慶長3年1598年9月末、明将董一元率い明・朝連合軍泗川倭城攻め寄せた明軍はまず泗川古城強襲主将川上忠実数百の兵で頑強に抵抗し、城から出撃すると明将遊撃李寧・盧得功以下数百人を討ち取った。しかし、数の上圧倒的に不利な川上忠実軍勢明・朝連合軍囲み突破して泗川古城放棄し泗川新城への撤退目指した。包囲突破する際、150余り戦死したが、泗川新城撤退することに成功した。また川上忠実は、瀬戸口重治に命じて敵の食糧庫を焼き討ちさせ、これに成功した大兵力の連合軍食糧不足していたが、食料庫焼かれたことでさらに窮地に陥り、短期決戦余儀なくされた。明軍10月1日をもって泗川新城への総攻撃を行うことに決した島津軍7000は数で大きく上回る明・朝連合軍迎撃することになる。1日明・朝連合軍泗川新城への攻撃開始島津軍は敵を引き付け、弓銃の一斉射撃で敵を撃退矢弾はほとんど命中し、敵の死体山積みとなる。この戦闘中明・朝連合軍火薬庫引火し爆発したこの機に乗じて島津軍城門開き打って出た島津義弘伏兵出動させて敵の隊列寸断して混乱させ、義弘本隊攻勢転じた義弘自ら4人斬り、忠恒もを受け負傷するも7人斬るなどして奮戦した混乱した連合軍疲労していたことも手伝って壊滅的被害受けた島津軍南江右岸まで追撃行い混乱し壊走する連合軍南江において無数の溺死者を出した。明将董一元星州まで逃亡した。この戦い島津大勝終わり明・朝連合軍死者は36000人を超えるとされる

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「泗川の戦い」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。

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