泗川古城での前哨戦とは? わかりやすく解説

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泗川古城での前哨戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:41 UTC 版)

泗川の戦い」の記事における「泗川古城での前哨戦」の解説

明・朝連合軍大軍動き察知した義弘は、配下守備させていた泗川古城永春昆陽・望晋の将兵義弘のいる泗川新城集結するよう命じたこのうち泗川古城配置されていた将兵撤収することが遅れたため、明・朝連合軍包囲された。泗川古城川上忠実主将とし、およそ1万石の食糧置いていたが、兵力はわずか数百にすぎなかった。慶長3年1598年9月27日明軍泗川古城強襲川上忠実少数ながら頑強に抵抗し、城から出撃すると明将遊撃李寧・盧得功以下数百人を討ち取った。しかし、死傷者多く出し危機的状況に陥っていたため、数の上圧倒的に不利な川上忠実軍勢明・朝連合軍囲み突破して泗川古城放棄し泗川新城への撤退目指した。包囲突破する際、忠実36の矢を受け重傷負い150余り戦死した泗川新城撤退することに成功した泗川古城危急に対して泗川新城義弘は、子の忠恒の援軍派遣すべきだとする進言島津軍兵力少数であることを理由退け泗川新城防備徹した。また忠実は、瀬戸口重治に命じて敵の食糧庫を焼き討ちさせ、これに成功した大兵力の連合軍食糧不足していたが、食料庫焼かれたことでさらに窮地に陥り、短期決戦余儀なくされた。明軍は、接収した泗川古城において軍議行い10月1日をもって泗川新城総攻撃を行うことに決した

※この「泗川古城での前哨戦」の解説は、「泗川の戦い」の解説の一部です。
「泗川古城での前哨戦」を含む「泗川の戦い」の記事については、「泗川の戦い」の概要を参照ください。

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