泗川新城での戦闘とは? わかりやすく解説

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泗川新城での戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:41 UTC 版)

泗川の戦い」の記事における「泗川新城での戦闘」の解説

義弘泗川新城を背に強固な陣を張り伏兵配置した連合軍の攻撃対し義弘大量鉄砲使用したり、地雷埋めるなどして対抗したまた、鉄片釘を砲弾代わりに装填した大砲使用した。明将国器、邦栄、彭信古などは泗川新城大手に、郝三聘、師道立、馬呈文、芳威などが左右に備え董一元中軍として泗川新城攻め寄せた篭城戦立ち向かった島津軍敵軍集中射撃してしのぎ、午後まで熾烈な接戦繰り広げられた。戦闘が続く中、明軍火薬庫引火し爆発火薬の煙が視野遮ったことで明・朝連合軍混乱陥った折から白と赤の2匹城中より明軍陣営の方へ走って行った。これを見た島津軍は、稲荷大明神勝戦奇瑞を示すものとして大い士気高まったという。この機に乗じて島津軍城門開き打って出た義弘伏兵出動させて敵の隊列寸断して混乱させ、義弘本隊攻勢転じた義弘自ら4人斬り、忠恒もを受け負傷するも7人斬るなどして奮戦した混乱した連合軍疲労していたことも手伝って壊滅的被害受けた島津軍南江右岸まで追撃行い混乱し壊走する連合軍南江において無数の溺死者を出した10月1日夜、島津軍泗川平原において勝鬨式を挙行し、戦闘幕を閉じたその後集結して撤退できた連合軍兵力1万ほどであったという。この戦いにより義弘は「鬼石子」(おにしまづ・グイシーマンズ)と恐れられ、その武名朝鮮だけでなく明国まで響き渡った。 『朝鮮王朝実録』には、三路の戦い第二次蔚山城の戦い泗川の戦い順天の戦い)において、明・朝鮮軍は全ての攻撃敗退し、これにより、三路に分かれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え人心は恟懼(恐々)となり、逃避準備をしたと記述されている。

※この「泗川新城での戦闘」の解説は、「泗川の戦い」の解説の一部です。
「泗川新城での戦闘」を含む「泗川の戦い」の記事については、「泗川の戦い」の概要を参照ください。

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