勝敗の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:41 UTC 版)
篭城側の島津軍はその戦力差のため、長期戦になれば不利になる恐れがあった。一方、包囲側の明軍も最低でも数万以上と推測される大軍を長期間展開するだけの食糧はなかった上に、島津軍の奇襲によって食料庫を焼失している。その結果、双方とも短期決戦を選ぶ他なかったと推測される。 心理面においては、明・朝鮮軍が連合軍であるために指揮統制が難しく、一度不測の事態によって混乱すると収拾が難しかったと思われる。そして敵軍がわずか7千と圧倒的に劣勢だったため、勝利を楽観視していたのではないかと思われる。これらの要因は、連合軍の弱点となったといえる。 一方の島津軍は、この戦いに敗れれば日本軍の連携が崩壊し、多くの味方が逃げ場を失うことを強く認識していたものと思われる。また島津の伝統的な釣り野伏せの戦術で劣勢を覆した経験が幾度もあったことで、全軍の意思も統一されていたと考えられる。さらに味方の援軍を断って島津家の兵だけで戦ったことにより、少数ながらも軍としてのまとまりが非常にあったものと思われる。 上記の要因が複合し、島津軍の奇襲作戦や伏兵などが成功して連合軍が混乱し瓦解したため、寡兵の島津軍が勝利しえたと推測できる。また島津軍が大量の鉄砲を防御に使用し、効果を挙げたことも大きな要因である。
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