三田渡の盟約とは? わかりやすく解説

三田渡の盟約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/15 00:33 UTC 版)

三田渡の盟約
(三田渡の屈辱)
(丁丑下城)
ソウル特別市松坡区蚕室洞にある三田渡碑(大清皇帝功德碑、韓国では恥辱碑ともいわれる)
各種表記
ハングル 삼전도의 굴욕
정축하성
漢字 三田渡의 屈辱
丁丑下城
発音ジョンドエ クルョ
チョンチュッカソン
日本語読み: さんでんとのくつじょく
ていちゅうげじょう
2000年式

MR式
Samjeondoui gulyok
Jeonchuk haseong
Samchŏntoui kukyok
Chŏnch'uk hasŏng
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三田渡の盟約(さんでんとのめいやく)は、清と李氏朝鮮との間で行われた丙子の乱の終戦講和条約である。1637年1月30日李氏朝鮮の首都漢城の郊外三田渡[1]で締結された。この記念に大清皇帝功徳碑が建てられた。朝鮮は、初代国王である李成桂1393年の初代皇帝朱元璋から権知朝鮮国事[2]に封ぜられて以降、一貫して明の属国であり続けたが、三田渡の盟約をもって、明の属国からの属国へとかわった。朝鮮は正式に清の属国となり、毎年上納される物品の量はその後減らされたものの、三田渡の盟約の大枠は日清戦争後の下関条約1895年4月17日)まで守られ続けた。

概説

  • 主な内容
    • 朝鮮は清に臣下の礼をつくすこと。
    • 朝鮮は明からの誥命(朝鮮王冊封の文書)と冊印[3]を清に献納すること。
    • 明と絶交し明の年号は使わないこと。
    • 王の長男と次男、大臣の子、大臣に子がない場合はその弟を人質として清に送ること。また何か不慮なことが起これば、人質の王子を朝鮮王に擁立するので覚悟しておくこと。 
    • 清が明を征服する時は、命令を下し、使いを送るので、場合によっては数万規模の歩兵・騎兵・船員を求められた期日までに、遅れることなく派遣すること。
    • また清軍が椵島[4]を攻め取るため、船50隻・水兵・槍砲等を準備しておくこと。
    • 聖節(清国皇帝の誕生日)や正月等、慶弔時は慣例に従い、大臣や内官が献礼にくること。
    • 清軍に捕まった朝鮮人捕虜が鴨緑江を渡ったり、朝鮮に逃げて帰った場合、送還すること。 
    • 内外の諸臣と婚姻を結び、友好を固くすること。
    • 新旧の城郭は清の事前の許可なく修理・増築を行わないこと。
    • これまで通り日本との貿易を許すこと。
    • 毎年黄金100両・白銀1000両のほか、水牛角弓面200副・豹皮100張、鹿皮100張等、20種目の物品を献納すること。
  • 1637年1月28日にホンタイジが仁祖に送った詔勅
寬温仁聖皇帝、詔諭朝鮮國王。 來奏、具述二十日之詔旨、憂計宗社、生靈、有明降詔旨、開安心歸命之請者、疑朕食言耶? 然朕素推誠、不特前言必踐、併與以後日之維新。 今盡釋前罪、詳定規例、以爲君臣世守之信義也。 爾若悔過自新、不忘恩德、委身歸命、以爲子孫長久之計、則將明朝所與之誥命、冊印獻納、絶其交好、去其年號、一應文移、奉我正朔。 爾以長子及再一子爲質、諸大臣有子者以子、無子者以弟爲質。 萬一爾有不虞、朕立質子嗣位。 朕若征明朝、降詔、遣使、調爾歩・騎、舟師、或數萬、或刻期會處、不得有悞。 朕今回兵、攻取椵島、爾可發船五十隻、水兵、槍砲、弓箭、俱宜自備。 大兵將回、宜獻犒軍之禮。 其聖節、正朝、冬至、中宮千秋、太子千秋及有慶弔等事、俱須獻禮、命大臣及内官、奉表以來。 其所進表、箋程式及朕降詔勅、或有事、遣使傳諭、爾與使臣相見、或爾陪臣謁見及迎送、饋使之禮、毋違明朝舊例。 軍中俘係、自過鴨綠江後、若有逃回、執送本主。 若欲贖還、聽從本主之便。 蓋我兵死戰、俘獲之人、爾後毋得以不忍縛送爲辭也。 與内外諸臣、締結婚媾、以固和好。 新舊城垣、不許繕築。 爾國所有兀良哈人、俱當刷還。 日本貿易、聽爾如舊。 但當導其使者赴朝、朕亦將遣使至彼也。 其東邊兀良哈避居於彼者、不得復與貿易、若見之、便當執送。 爾以既死之身、朕復生之。 全爾垂亡之宗社、完爾已失之妻孥、爾當念國家之再造、異日子子孫孫、毋違信義、邦家永奠矣。 朕因爾國狡詐反覆、故玆敎示。 崇德二年正月二十八日。 歳幣以黄金一百兩、白銀一千兩、水牛角弓面二百副、豹皮一百張、鹿皮一百張、茶千包、水㺚皮四百張、靑黍皮三百張、胡椒十斗、好腰刀二十六把、蘇木二百斤、好大紙一千卷、順刀十把、好小紙一千五百卷、五爪龍席四領、各樣花席四十領、白苧布二百匹、各色綿紬二千匹、各色細麻布四百匹、各色細布一萬匹、布一千四百匹、米一萬包爲定式。

寬温仁聖皇帝朝鮮国王に詔書として諭示する。送ってきた奏文を見るに、20日の詔勅の内容を備えて陳述し、宗社と生霊に対する策略を憂いながら、詔勅の内容を明らかにして、安心して帰順できる道を開いてほしいと懇願たんだけど、朕が食言するのではないかと疑うのか? しかし朕は本来、私の真心を他人にまで適用するので、前回の言葉を間違いなく実践するだけでなく、後日に維新することにも共に参加するつもりだ。従って今や過去の罪をすべて諒恕し、規例を詳細に定め、君臣が代々守る信義とする次第である。

お前が過ちを反省し、改過遷善して恩徳を忘れずに自らを任せて帰順し、子孫の長久な策にしようとするなら、これから明朝が与えた誥命と冊印を献納し、彼らとの修好を断ち切り、明の年号を捨て、一切の公文書に我国の正朔を奉るようにしろ。そしてお前は長男および次男を人質にして、諸臣は息子を、息子がいなければ弟を人質にしろ。もしお前に不祥事が起こったら、朕が人質となった息子を立てて王位を継がせる。朕が明朝を征伐するために詔勅を下し使者を送り、お前の国の歩兵・騎兵・船員を選抜して数万人とするか、あるいは期限と集まる所を決めれば間違いがないようにせよ。もう朕は回軍して椵島を攻略して取るはずだから 、お前は50隻の船を出し、水兵・槍砲・弓箭らをすべて自ら準備するのが当然だ。また大軍が帰還する際にも接待する礼遇を捧げるべきであろう。

聖節・正朝・冬至・中宮千秋・太子千秋・慶弔などの出来事があれば、必ず儀礼を備えて、大臣や内官に命じて表文を奉って来るようにしろ。捧げる表文と箋文の形式、朕が詔勅を下したり、有事の際に使者を送る場合にお前と使者が顔合わせすること、またはお前の陪臣を接見すること、出迎えて見送たり、使者を持て成す礼遇などを明朝に対する慣例と違わないようにする。軍中の捕虜が鴨緑江を渡って逃げて帰って来るなら、捕まえて元の主人に送るべきだ。還俗金を納めて帰還しようとするなら、元の主人の便宜を図るべきだ。我軍の兵士が死を覚悟の上で戦って得た捕虜だから、お前は後にとても縛って送れないと言うな。内外の諸臣と婚姻を結び、和好を固くするようにせよ。新旧の城郭は、修理または増築することを許さない。お前の国にいる兀良哈の人々はみな刷還させる。

日本との貿易はお前が昔のようにすることを許す。ただし彼らの使者を引き渡して朝会に来るようにしろ。朕も将来に使者を彼らに派遣しようとする。東辺の兀良哈に逃避して居住している者とは再び貿易しないで、発見されれば捕まえて送るべきだ。お前はもう死んだ命だったのに朕が蘇生させ、ほとんど滅びていく宗社を保全し、もう失った妻子も守ってくれた。お前は当然に国家を再興してくれた恩徳を考えろ。後日に信義に背かないようにすれば、お前の国は永久に安定するだろう。朕はお前の国が重ねて狡猾に欺いたから、こんなに大詔として示すものだ。崇徳2年正月28日。

黄金100両、白銀1000両、水牛角弓面200副、豹皮100張、鹿皮100張、茶1000包、水㺚皮400張、青黍皮300張、胡椒10斗、好腰刀26把、蘇木200斤、好大紙1000卷、順刀10把、好小紙1500巻、五爪龍席4領、各樣花席40領、白苧布200匹、各色綿紬2000匹、各色細麻布400匹、各色細布10000匹、布14000匹、米10000包を歳幣として定める。」

脚注

  1. ^ ソウル特別市松坡区蚕室洞。
  2. ^ 朝鮮国代官。
  3. ^ 朝鮮の国璽。
  4. ^ 鴨緑江の河口にある島。

関連項目

外部リンク

写真
碑文

三田渡の盟約

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仁祖」の記事における「三田渡の盟約」の解説

45日の抗戦の後、降伏決意した仁祖1637年1月30日漢江南岸三田渡にある清軍本営出向きホンタイジ天子であることを三跪九叩頭の礼によって認めるという屈辱的な城下の盟余儀なくされた。 これ以後近代に至るまで、朝鮮は清の冊封国となる。しかも仁祖長男昭顕世子人質として清に抑留された。今も三田渡(現・ソウル市松坡区石村洞)にはホンタイジ建てた盟約碑(三田渡碑)が残る。清軍は50朝鮮人捕虜引き連れて満州帰還した

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「三田渡の盟約」を含む「仁祖」の記事については、「仁祖」の概要を参照ください。

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