李氏朝鮮時代と日清戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:14 UTC 版)
朝鮮国としての詳しい歴史については李氏朝鮮を参照 朝鮮国(李氏朝鮮)は、1637年に清と三田渡の盟約を結んで冊封国となっていた。その後、19世紀後半に列強の帝国主義政策が東アジアにまで及ぶと、1875年(明治8年)の江華島事件を契機として翌1876年(明治9年)に日本と締結した日朝修好条規を始め、李氏朝鮮はアメリカやフランスなどの欧米諸国と不平等条約を結ぶことになった。 このような情勢を受け、朝鮮国内では清国との冊封体制を脱して近代化をすべきだという者(開化党)と、清国との関係を維持すべきだという者(事大党)とが対立する。そうした中で1882年(明治15年)、両派の暗闘から壬午事変が起こり、日本公使館も暴徒に焼き討ちされて死亡者が発生する。公使館保護を名目とする日本と、朝鮮を属国と主張する清の両国は鎮圧を理由としてともに出兵、日清の対立は決定的となった。 当時の朝鮮半島は、共に自らの勢力圏におさめようとする日本と清朝の角逐の場であったため、日本は権益を確立するため朝鮮国に対する清朝の影響を排除する必要があった。そして、1894年(明治27年)に日清戦争が勃発し、1895年(明治28年)に日本が清国に勝利、下関条約を締結した。この条約により、大日本帝国は清国に朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮国(李氏朝鮮)から清国に対する貢献・臣下の典礼等を廃止させた。
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