李氏朝鮮時代以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 02:15 UTC 版)
百済始祖温祚王が南漢山城と関連付けられたのは、朝鮮初期、百済最初の首都“河南慰礼城”が南漢山城と考えたからである。『朝鮮王朝実録』、『新増東国輿地勝覧』、『大東野乗』、『練藜室記述』、『輿地図書』、『大東地誌』など大部分の李氏朝鮮時代の地理関連資料は南漢山城が百済の古城だと主張しているが謎のままである。漢城にちょうど都邑を移した李氏朝鮮の立場で、漢城が国家の首都として相応しい所なのを強調しようとしたのである。しかし『重訂南漢志』の著者である洪敬謨だけが、柳馨遠の『磻渓随録』を引用してこのような主張に異を唱えたが、認められることはなかった。 南漢山城の最初の築城に対する2つ目の説は、新羅時代に築かれた昼長城という主張である。『三国史記』の記録が根拠だが、三国史記に昼長城が漢江以南の「漢山に昼長城を築いたが周囲が 4,360歩ある」という記録がされていて、漢江流域をめぐり高句麗、百済と熾烈な戦争の中だった新羅が、漢江以南に大規模な城を築く必要性も十分だったからである。当時漢山地域の山城の中でこの記録に近接した山城は南漢山城が唯一である。また李氏朝鮮時代の記録にも昼長城の城壁の長さが3,993歩(『世宗実録地理志』)や宣祖代の布帛尺では17,400尺などと記録されている距離を今日の単位に換算して計算すれば、昼長城に関する記録は似ている。仁祖当時の改築時の記録には「昔の敷地に沿って南漢山城をまた築くようにした」という記録が、昼長城が南漢山城という説を裏付けていると解釈されている。 高麗時代の記録は曖昧で、元の高麗侵入当時1231年と1232年の2度、広州城で元軍を退けたという記録があるが(当時広州府使李世華の墓地の碑石)、広州地域に所在する山城は二聖山城と南漢山城だが、6世紀中葉に築城された二聖山城は規模が小さくて篭城専用というより海美邑城のように行政中心地の性格が強いので、上の記録にある広州城が南漢山城として推定されている。先に言及された李世華の墓誌銘には、元軍が侵攻した時、城を修理したとなっており、『高麗史』に恭愍王10年に紅巾の敵が侵攻した際、恭愍王が開京を放棄して避難の途につくと、広州周辺住民たちが皆山城に登ったという記録が高麗時代の記録の全てである。ただ(南漢山城が高麗時代の記録にある広州城という前提で)記録資料や発掘された高麗時代の遺物が少ないという点をあげて、戦争状況で一時的に使う篭城専用城だと推定している。
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